逝去した野村證券元社長:田淵義久氏が残した大きな「功」

2023年11月15日 08:29

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 野村證券の元社長:田淵義久が91歳で逝去した。伝えるメディアの大方は、「1991年の損失補填など証券不祥事で社長を退いた」「97年の総会屋への利益供与で職を辞した」とする見出しを振った。事実ゆえに異論はない(以下、敬称略)。

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 が私はあの世に向かう田淵への土産に、「功」の部分も書き残しておきたいと思う。

 1980年1月に「証券会社の預金」と呼ばれた『中期国債ファンド(通称、ちゅうこくファンド)』が、銀行界の猛烈な反対のなか野村證券から発売された。

 この中国ファンドが生み出された道筋はここでは詳細は省くが、二通りあった。1本の道を先頭に立って登ったのが、取締役営業企画部長の田淵だった。

 キッカケは1978年6月発行の、中期国債だった。償還期間10年の国債を発行し借金を繰り返してきた国は、多額の借金返済の時期を迎えていた。が返済財源は乏しい。そこで新規に発行されたのが、非上場の3年物国債。

 公募入札に当たり、野村證券の公社債部は「多少イロをつけても、仮に6.8%の利回りで100億円仕込んでも半分は売れ残って抱え込むことになるだろう」と消極的だった。入札物の金融商品には、経過利息や締切日など購入上わずらわしい問題が多々あったからだ。

 が応札と同時に営業現場におろされた100億円の中期国債は、僅か半日で完売してしまったのだった。「何故だ」と驚いた田淵は、「徹底して調べろ」と命じた。結果を聞き、二度驚いた。日頃「国債もいいけど、10年物はいかにも長すぎる」と聞かされていた現場の女性スタッフ達は、「3年物なら、銀行の定期預金との比較で十分に売れる」と待ち構えていたのだった。

 私は田淵の口から、「マーケットに教えられた。が諸々の問題がある中期国債を本当の売れ筋にするには・・・」と、以下の話を聞かされた。

 田淵はこの年の1月から営業企画部のスタッフを中心に、ある研究会をスタートさせていた。銀行がCD(譲渡性預金)を開発・販売する動きが濃厚になっていた。第三者に譲渡しやすい、無記名の定期預金証書である。「証券会社もCDに対峙しうる短期金融商品を手にしなくてはならない。どんな商品が適当か」を浮上させるために、米国の短期金融証券を検討する研究会だった。

 結論に至るにさして時間はかからなかった。当時米国で人気が出始めていた、メリルリンチ証券の「MMF(マネー・マーケット・ファンド)」が有力候補となった。

 が大きな壁が待ち構えていた。短期金融市場(商品)の差異。当時の米国の短期金融市場は資産残高70兆円を超え、金融資産全体の8.4%に及んでいた。対して日本はコール・手形・現先の3市場を合わせ残高は11兆円強、金融資産残高全体の2.5%に過ぎなかった。

 日本版MMFを組成するには「コマ不足」。1979年2月、検討会は立ち往生してしまった。

 そんな出尽くし状況を待ち構えていたように、田淵は言った。

 「MMFの日本版の運用対象の主軸を、中期国債にしたらどうか」。その上で「非上場債ゆえに、中期国債が価格・利回りのうえでいかに安定性が高いか」のシュミュレーションを示して、「中期国債を活かしたファンドを組成すれば、日本版MMFも決して無理ではない。大蔵も国の都合で中期国債を出した以上、証券版普通預金を頭から批判することもできまい」と言い放ったのである。

 田淵が敷いたこうした流れがもう一つの道を登ってきた、当時の副社長:伊藤正則が率いる登山者達と合流し「中期国債ファンド」は生み出されたのである。(記事:千葉明・記事一覧を見る

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