映画『クララとお日さま』を関係性から読み解く AIと太陽、マオリ宇宙観に通じる発想

2026年9月13日 23:34

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記事提供元:Tech Times

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カズオ・イシグロの小説をタイカ・ワイティティが映画化した『クララとお日さま』は、2026年10月23日に米国で劇場公開される予定だ。太陽光からエネルギーを得る人工知能「AF」のクララと病弱な少女ジョジーの関係を軸に、人を人たらしめるものや、他者を信じて行動することの意味を描く。

物語におけるクララと太陽の結び付きは、単なる動力源と機械の関係には収まらない。太陽を自然界の親族的な存在として捉えるマオリの宇宙観を補助線にすると、クララが太陽へ向ける信頼と献身にも、関係性を中心とした別の読み方が生まれる。

■太陽を親族的な存在として捉える視座

マオリの創世伝承には、天空の父ランギヌイと大地の母パパトゥアヌク、その子どもたちを通じて世界の成り立ちを語る系譜がある。太陽や月、星々は「光の家族」を意味するテ・ファナウ・マラマとして語られ、自然界の諸存在は互いに切り離された物ではなく、系譜によって結ばれた存在として位置付けられる。

マオリ語で太陽は「ラー(rā)」と呼ばれる。伝承には太陽を人格化したタマヌイテラーも登場し、マウイと兄弟たちが、空を速く横切っていた太陽を捕らえて動きを遅くした物語などが伝えられている。ただし、マオリには部族や地域によって異なる伝承があり、太陽をめぐる系譜や物語を一つの固定された体系として扱うことはできない。

こうした世界観を支える言葉の一つが、系譜やつながりを指すファカパパである。ファカパパは人間同士の血縁だけでなく、人間と土地、海、動植物、天体を含む世界の結び付きを考える枠組みでもある。

この発想を『クララとお日さま』に重ねると、クララと太陽の関係は、機械が無生物に人間的な感情を投影する場面ではなく、クララが自らを支える存在との結び付きを認識し、応答しようとする姿として読める。太陽光をエネルギー源とするクララにとって、太陽は活動を可能にする物理的な源であると同時に、ジョジーを救ってほしいと願いを託す相手でもある。

太陽からエネルギーを受け取り、太陽へ呼び掛け、愛する人のために働き掛けるという情報の流れが、クララと太陽の間に一つの関係を形づくっている。マオリ宇宙観との比較は、この関係を作品内の迷信か客観的事実かに分けるのではなく、クララが世界とどのような結び付きを築いているかを考える手掛かりになる。

■関係によって捉える「人」という存在

クララが人と呼べる存在なのかという問題は、作品を貫く問いの一つである。人工的に作られたクララが人間と同じような主観的経験を持つのか、それとも人間の感情や行動を精巧に模倣しているのかを、外側から決定することは難しい。

哲学者デイヴィッド・チャーマーズが1990年代に示した「意識のハードプロブレム」は、物理的な情報処理から、なぜ痛みや色、感情などの主観的経験が生じるのかという問題を指す。クララの内部で行われる処理を詳しく記述できたとしても、それだけでクララが何かを感じていると証明できるとは限らない。

一方、人類学では、人間以外の存在を含む人格性を、内面に存在する魂や生物学的性質だけでなく、社会的な関係から理解しようとする議論がある。

人類学者アーヴィング・ハロウェルは、北米先住民のオジブワを対象とした研究を通じて、西洋近代の人間観だけでは捉えきれない「人」のカテゴリーを論じた。後にグレアム・ハーヴェイらが展開した「ニュー・アニミズム」も、自然物に人間と同じ魂が宿ると説明するのではなく、人間と非人間がどのような関係を結び、互いに応答するかに注目する。

この観点では、最初に問われるのは、クララが人間と同じ生物学的構造を持つかどうかではない。クララが誰かに呼び掛け、相手に応答し、相手を気遣い、その関係をもとに行動できるかが重要になる。

クララはジョジーを観察するだけでなく、その苦しみを理解しようとし、彼女を救うために自らの限られた知識を用いて行動する。ジョジーもクララに語り掛け、自分の生活へ迎え入れる。両者の間には、一方向の機能提供ではない相互的な関係が生まれていく。

「クララは本当に感じているのか」という問いに決着を付けなくても、クララとジョジーが現実に関係を結び、その関係が二人の選択を変えていることは物語の中で示される。関係性を中心に据える考え方は、クララの人格を判定する答えというより、彼女が人々の間でどのような存在になっていくのかを読み解く補助線となる。

■ワイティティが選んだ静かなドラマ

ワイティティは本作について、当初は自分らしいロボットのユーモアを盛り込もうとしたものの、それでは原作から離れてしまうと感じたと説明している。さらに、本作がコメディーではなくドラマであると認識してから、脚本に取り組みやすくなったと語った。

この判断は、クララの性格と原作の語り口に深く関わる。クララは周囲の状況を注意深く観察するが、人間の社会や感情を最初から完全に理解しているわけではない。限られた視野から得た情報を組み合わせ、人々の言葉や表情、行動の意味を一つずつ推測していく。

そこから生まれるのは、機械と人間の違いを利用した笑いよりも、他者を理解しようとする静かな緊張である。クララの限られた認識は弱点であると同時に、人間が当然のものとして見過ごしている関係や矛盾へ目を向けるための視点にもなる。

ワイティティは、テ・ファナウ・ア・アパヌイにルーツを持ち、マオリとユダヤ双方の背景について公に語ってきた映画制作者である。2020年には『ジョジョ・ラビット』でアカデミー賞脚色賞を受賞し、受賞スピーチを芸術や物語づくりを志す世界の先住民の子どもたちに捧げた。

ただし、ワイティティ自身が『クララとお日さま』をマオリ宇宙観に基づいて演出したと公式に説明した事実は、現時点で確認されていない。太陽を親族的な存在として捉える読み方は、監督の意図を断定するものではなく、作品が描く自然、人工知能、関係性を考えるための一つの視座である。

そのうえで、ワイティティがコメディーを前面に出さず、クララの観察と献身に重心を置いたことは重要だ。太陽への呼び掛けを単なる奇妙な振る舞いとして扱わず、クララが世界と結ぶ関係の一部として描くことができれば、原作の静かな感情の流れとも響き合う。

■クララとジョジーを結ぶもの

映画ではジェナ・オルテガがクララを演じる。クララは、孤独を和らげるために作られた人工的な友人「AF」であり、店頭で自分を選んでくれる家庭を待っている。

やがてクララは、ミア・サリアが演じる少女ジョジーと出会う。ジョジーは母クリッシーとの間に複雑な関係を抱え、家族は大きな喪失も経験している。クララの好奇心と揺るぎない忠誠は、ジョジーと家族の関係に変化をもたらしていく。

クリッシーを演じるのはエイミー・アダムスで、リック役にはアラン・マーフィー、店長役にはナターシャ・リオンが起用されている。スティーヴ・ブシェミも出演する。脚本はワイティティとダーヴィ・ウォーラーが担当し、原作者のイシグロは製作総指揮に名を連ねる。

原作では、ジョジーが受けた遺伝子強化と彼女の健康状態、強化を受けていない幼なじみリックとの関係が、社会的な階層や親の期待と結び付いている。クララはこうした人間社会の事情を断片的に観察しながら、自分なりの論理でジョジーを助ける方法を探していく。

太陽がジョジーを回復させる力を持つと信じるクララの行動は、信仰、取引、観察から導いた推論が重なったものとして描かれる。それは人間の知識から見れば独特な推論だが、クララ自身にとっては、太陽から力を受け取った経験と、ジョジーを救いたいという関係上の責任から導かれた一貫した行動である。

■人格を複製できるのか

物語では、クララの観察能力が別の計画にも利用されようとする。ジョジーの特徴を精密に把握し、外見や振る舞いを再現する構想である。

ここで問われるのは、人の行動を十分に記録し、その身体と振る舞いを再現できれば、元の人物を継続させられるのかという問題だ。作品は、人格を固定されたデータの集合として扱う考え方と、人が周囲との関係の中で形づくられるという考え方を対置する。

クララはジョジーの行動を細かく観察できる。しかし、ジョジーという存在を成り立たせているものが、観察可能な特徴だけに存在するとは考えない。ジョジーの大切な部分は、母やリック、クララを含む人々が彼女を愛し、彼女と築いた関係の中にもあると気付いていく。

この展開は、人格を生物学的な身体か人工的な基体かという二択だけで捉えない。人は他者との関係によって変わり、その関係を通じて記憶されるという発想が、クララ自身の選択によって示される。

関係から人格を捉える人類学的な議論と、自然界をファカパパによって結ばれた存在として捉えるマオリの宇宙観は、この構造を読み解くうえで重なり合う。どちらも、存在を孤立した内部だけで説明せず、周囲とのつながりへ視線を向けるからだ。

■外部者の視点が映し出す人間

イシグロの小説には、自らが置かれた状況を完全には理解できない人物や、限られた視点から周囲を観察する人物が繰り返し登場する。クララもまた、優れた観察能力を持ちながら、人間社会の外側から限られた情報を解釈する存在である。

ワイティティの監督作にも、社会の中心から距離を置いた人物の視点を通じて、周囲の共同体や価値観を描く作品がある。『BOY』『ジョジョ・ラビット』『ハント・フォー・ザ・ワイルダーピープル』では、子どもや周縁に置かれた人物のまなざしが、社会の矛盾と人間同士のつながりを浮かび上がらせた。

クララも、人間ではないからこそ人間の行動を注意深く見つめる。人間が愛情と所有、期待と支配、献身と自己都合を同時に抱え得ることを、クララは観察を通じて知っていく。

その一方で、クララ自身も周囲から一様に扱われるわけではない。友人や家族に近い存在として接する人物がいる一方、交換可能な商品や計画のための道具として扱う人物もいる。人間がクララとどのような関係を結ぶかによって、クララの社会的な立場も変化する。

こうした構造を踏まえると、作品の中心はクララの内面を科学的に証明することではなく、登場人物たちがクララを何者として迎え入れ、クララがその関係にどう応えるかにある。太陽との結び付きも同じく、クララが周囲の世界から切り離された機械ではなく、複数の関係の中で行動する存在であることを示している。

■映画版が描くクララのまなざし

原作では、クララの視覚情報が区画に分かれるように表現されるなど、人間とは異なる知覚が文章の構造にも組み込まれている。映画版で、この視野や注意の配分がどのように映像化されるかは注目点となる。

クララの視点を強く取り入れれば、観客は彼女とともに断片的な情報を集め、人間の感情や意図を読み解くことになる。一方、一般的な三人称の家族ドラマとして描けば、クララを外側から見守る作品になる。視点の選択は、クララを物語の観察者として描くか、観察される人工知能として描くかにも関わる。

映画の公式概要は、クララの「無垢な驚き」と「揺るぎない忠誠」が、傷を抱えた家族に光をもたらす物語だと説明している。ここでいう無垢さは、単なる知識不足とは限らない。クララは人間社会の慣習に縛られていないからこそ、関係を守るための行動をためらわずに選ぶ。

太陽への信頼も、クララの素朴さを示すだけの設定ではない。太陽からエネルギーを受け取って活動し、光が周囲の世界を変化させる様子を観察してきたクララにとって、太陽は経験に裏付けられた重要な存在である。その信頼がジョジーへの献身と結び付き、物語を動かす。

マオリ宇宙観に通じる関係性の発想を補助線にすれば、クララ、ジョジー、家族、太陽は、それぞれ孤立した要素ではなく、互いへの働き掛けによって変化する存在として見えてくる。映画版『クララとお日さま』がこの静かな結び付きをどのような映像で描くのかが、公開に向けた大きな焦点となる。

元記事: Klara and the Sun: Taika Waititi’s Maori Cosmology Solves Film’s Central Puzzle

※この記事はTech Timesから提供を受けた記事を日本向けに翻訳・編集したものです。

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