天正遣欧使節・千々石ミゲルの木棺が発掘か

2017年9月3日 07:29

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 長崎県諫早市にある、天正遣欧使節の一人である千々石ミゲルの墓とされる石碑の一帯で行われている発掘調査において、木棺の一部と見られる木片と金具が発掘された。本当に千々石ミゲルの棺であった場合、天正遣欧使節の墓が確認されるのは初めてのことになる。

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 調査は、別府大学の考古学者田中裕介教授らにより8月20日から実施され、平らな石を並べた「蓋石」と見られるものの下の空洞から、木片と金具が見つかった。

 千々石ミゲルは、イエズス会によるキリシタン伝道が盛んであった16世紀後半に、伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルティノらとともに、天正遣欧使節として、ヨーロッパに派遣された日本人キリスト教徒の一人である。生年は判明していないが、当時少年であったことから推測するに、1570年頃の生まれと考えられる。

 天正遣欧使節は1582年に長崎を出発、1585年のローマ教皇グレゴリウス13世との歴史的会見をはじめ、ヨーロッパ各地で熱烈な歓迎を受けた。そして1590年、再び長崎に帰還。

 しかし、よく知られるようにその後日本でキリスト教禁令が発令されたため、彼らの後半生は過酷なものであった。原マルティノは日本を去り、伊東マンショと中浦ジュリアンは迫害の中で殉教を遂げた。そして千々石ミゲルは、弾圧に屈して棄教したと伝えられている。

 その後彼は千々石清左衛門と名を改め、大村藩の藩士として600石の家禄を得るようになった(ちなみに彼は元々かなり身分の高い大名家の縁者である)。そして晩年に至るまでキリスト教を批判する言動を取り続けたと言われる。

 現地に伝わる伝承では、その後藩主と不仲になったため、その亡骸は藩の城を睨むような向きで埋葬されたとされている。

 発掘地は以前から千々石ミゲルとその妻の墓であるとされてきたが、まだ実際の墓であるとの確証はない。今後、骨や副葬品などが残っていないかさらに調べていくという。(記事:藤沢文太・記事一覧を見る

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