独メルク、遺伝性心筋症の治療薬開発を目指すSaturnus Bioを共同設立――「買収前提」モデルで5000万ドルを投資
2026年6月26日 01:12
ドイツの科学・テクノロジー企業Merck KGaA(メルク)は2026年6月23日、ベンチャーキャピタルであるVersant Venturesと共同で、遺伝性心筋症向けの遺伝子調節スタートアップ「Saturnus Bio」を設立したと発表した。メルクは5000万ドル(約81億円、1ドル=162円換算)を前払いで出資し、将来的な独占買収権を確保する。これまで遺伝子レベルでの承認治療薬が存在しなかった遺伝性心筋症に対し、従来の遺伝子治療の限界を克服する「遺伝子調節」アプローチでの治療薬開発を目指す。
■遺伝性心筋症における治療の現状と課題
遺伝性心筋症(肥大型心筋症、拡張型心筋症、不整脈源性心筋症など)は、世界中で250人から500人に1人の割合で発症するとされている。これらは単一遺伝子の変異によって心筋の構造タンパク質が変化し、心臓の肥大や衰弱、危険な不整脈を引き起こす疾患である。35歳未満の成人における突然死の主な原因の一つであり、若年患者における心不全や心臓移植の主要な要因となっている。
遺伝子検査の進歩により、症状が現れる前に原因となる遺伝子変異を特定できるようになっている。しかし、メルクの指摘によれば、これまでに根本的な遺伝子的原因を標的とした承認治療薬は存在しない。2022年にFDA(米国食品医薬品局)に承認されたマバカムテン(製品名:Camzyos)や、2025年12月に承認されたアフィカムテン(製品名:MYQORZO)といったミオシン阻害薬は、心筋の収縮を調整して症状を緩和するものの、疾患の原因である遺伝子変異そのものを修復するものではない。そのため、MYBPC3、TTN、LMNA、PKP2などの遺伝子に変異を持つ患者は、症状の管理と突然死リスクの監視を行いながら、新たな治療法の登場を待つしかないのが現状である。
■従来の遺伝子治療が直面する「サイズ」と「送達」の壁
欠陥のある遺伝子の正常なコピーを心筋細胞に直接送り込むという、最も直感的な「遺伝子置換」アプローチは、心臓においては技術的に極めて困難であることが証明されている。
一般的な遺伝子治療の送達ベクターであるアデノ随伴ウイルス(AAV)は、約5キロベース(kb)のDNAしか搭載できない。しかし、拡張型心筋症(DCM)の最も一般的な原因遺伝子である「チチン(TTN)」は、364個のエクソンにまたがる約100kbの符号化配列を持ち、人体で最大のタンパク質をコードしている。そのため、AAVを用いた遺伝子置換は物理的に不可能である。TTN遺伝子の切断型変異は家族性DCM症例の15〜25%を占めており、最も一般的な遺伝性心筋症の主要原因が、従来の遺伝子治療の対象外となっている。
さらに、送達(デリバリー)の課題も存在する。肝臓を標的とするRNA医薬では、肝細胞の受容体に結合する「GalNAc(N-アセチルガラクトサミン)」を結合させることで、全身投与でも標的組織に精密に届けるシステムが確立されている。しかし、心筋細胞にはこれに相当する受容体とリガンドの標的システムが存在しない。RNA医薬をオフターゲット(標的外)への分布を抑えつつ、心筋細胞へ確実に届ける技術は、依然として未解決の課題である。
■Saturnus Bioが挑む「遺伝子調節」アプローチ
Saturnus Bio is、遺伝子そのものを置き換えるのではなく、遺伝子の発現量を増減させる「遺伝子調節(gene modulation)」アプローチを採用する。これには、アンチセンスオリゴヌクレオチド(ASO)、RNA干渉(RNAi)、エピジェネティック編集などの技術が含まれる。これらのプラットフォームは、遺伝子とタンパク質の中間体であるメッセンジャーRNA(mRNA)に作用するため、フルサイズの遺伝子を送り込む必要がないという大きな利点がある。
ASOは、標的mRNAの相補的配列に結合するよう設計された短い合成核酸(通常15〜25塩基)である。結合後、酵素(RNase H)によるmRNAの分解を促したり、翻訳を物理的に阻害したり、スプライシングを制御して変異のあるエクソンをスキップさせ、短くとも機能するタンパク質を産生させたりすることができる。RNAiも同様の原理で、2本鎖の小分子干渉RNA(siRNA)がRISC(RNA誘導サイレンシング複合体)に取り込まれ、標的mRNAを極めて高い特異性で切断する。
この調節ツールキットは、遺伝子置換では不可能な治療経路を提供する。例えばTTN関連のDCMにおいて、スプライシング調節タンパク質「RBM20」を標的とするASOを用いることで、心臓がより弾力性のあるチチンのアイソフォームを発現するようにシフトさせ、拡張機能を改善できる可能性が研究で示されている。また、変異アレルが毒性タンパク質を産生する優性阻害(ドミナントネガティブ)の疾患モデルにおいては、アレル特異的なsiRNAサイレンシングにより、正常なコピーを残したまま、疾患の原因となるタンパク質のみを選択的に減少させることができる。
残る課題である心臓への送達については、コレステロール結合ヘテロ二本鎖オリゴヌクレオチドや、心筋細胞の表面に豊富に発現しているトランスフェリン受容体1(TfR1)のリガンドとの結合といった新しい解決策が模索されている。これらはまだ心筋症の臨床試験段階には至っていないが、前臨床データはSaturnus Bioへの5000万ドルの出資を呼び込むのに十分な強さを示している。
■「買収前提(Build-to-Buy)」の投資構造と背景
Saturnus Bioは、メルクとサンフランシスコを拠点とするライフサイエンス分野のベンチャーキャピタル、Versant Venturesによって共同設立された。Versantは2010年代初頭に「build-to-buy(買収前提の設立)」モデルを開拓し、IPO(新規公開株)市場の低迷により初期段階のバイオテック企業が独立してエグジットすることが難しくなった現在、このモデルを再導入している。
今回の契約構造は戦略的に設計されている。メルクが支払う5000万ドルの前払金はSaturnusの研究活動に充てられ、メルクは少数株主の地位を得る。Saturnusが前臨床のマイルストーンを達成するごとに追加の支払金が発生し、メルクはあらかじめ決定されたオプション価格でSaturnusを完全に買収する独占的権利を保有する。さらに、臨床の進捗に応じたアーンアウト(追加支払い)も設定されている。
この構造は、Versantにとっては資金が十分に確保された状態でのスタートを保証し、メルクにとっては研究段階の価格で将来有望なパイプラインを独占的に確保できるメリットがある。2020〜2022年のバイオテック投資ブーム期には、スタートアップが独自に大規模な資金調達を行い、高水準の評価額でIPOを目指すことができたため、このモデルは一時的に敬遠されていた。しかし、市場環境の変化に伴い、製薬企業の戦略的優先事項が前臨床段階の研究資金の行き先を決定する構造へとシフトしている。
■メルクのパイプライン補強と今後の展望
今回の提携は、遺伝子調節技術への投資であると同時に、メルク自身のパイプライン補強という側面も持つ。メルクのヘルスケア部門CEOであるDanny Bar Zoharは、2026年5月に同社の初期段階のパイプラインが「かなり薄い(rather slim)」と率直に認めており、長期的な競争力を維持するために新たな治療プログラムを育成する必要があった。
SaturnusのCEOには、Versant Venturesの起業家インレジデンスであり、過去にForesite LabsやRegeneron Genetics Centerに在籍したRick Dewey医師が就任した。また、Fierce Biotechの報道(プロファイル情報に基づく)によると、創薬研究部門は、元ファイザーの希少疾患部門で希少心筋症の研究グループを率いていたRussell Miller博士が統括する。
メルクのR&D責任者兼最高医学責任者(CMO)であるDavid Weinreich医師は、「Saturnus Bioとの提携を通じて、精密循環器医療により遺伝性心筋症の革新的な治療法の開発を迅速に進め、これらの疾患に苦しむ希少な患者層をターゲットにすることを目指す」と述べている。また、メルクの抗体薬物複合体(ADC)プラットフォームを活用した「新たな方向性の模索」の可能性にも言及しており、最終的な治療アプローチがRNAツールだけに留まらない可能性を示唆している。
現在、遺伝性心筋症の分野では、Tenaya TherapeuticsがMYBPC3変異によるHCM患者を対象としたAAV9ベース of 遺伝子治療「TN-201」のフェーズ1b臨床試験を進めている。また、Rocket Pharmaceuticalsは、不整脈源性心筋症のPKP2変異を標的とする遺伝子治療「RP-A601」でFDAの再生医療先進治療(RMAT)指定を受け、BAG3関連の拡張型心筋症を対象とした「RP-A701」のフェーズ1試験を開始している。
これらは「遺伝子置換」アプローチであり、Saturnusが目指す「遺伝子調節」とは異なる。メルクとSaturnusは、具体的な候補薬や標的遺伝子、臨床試験の開始時期などは公表していない。5000万ドルの資金は、臨床試験申請(IND)の前段階となる候補薬の「基盤ポートフォリオ」構築に充てられるため、患者が実際に治療を受けられるようになるまでには数年単位の時間がかかるとみられる。しかし、大手製薬企業が遺伝性心筋症の遺伝子調節に特化した大規模な投資を行ったことは、この分野における重要な転換点を示している。
■注目ポイントQ&A
●遺伝性心筋症とはどのような病気で、なぜ治療が難しいのですか?
遺伝性心筋症は、心臓の収縮を担う分子機械である心臓サルコメアの構造タンパク質をコードする単一遺伝子の変異によって引き起こされる心筋の疾患です。遺伝子検査で変異を特定することは可能ですが、心臓への治療薬の送達が極めて困難でした。従来の遺伝子治療で使われるアデノ随伴ウイルス(AAV)は、約5キロベース(kb)のDNAしか搭載できず、拡張型心筋症の原因となるTTN遺伝子(約100kb)などの巨大な遺伝子には対応できません。また、肝臓とは異なり、心筋細胞にはRNA医薬を標的送達するための確立された受容体が存在しないことも治療を難しくしています。
●遺伝子調節(gene modulation)と遺伝子治療(gene therapy)の違いは何ですか?
一般的な遺伝子治療は、ウイルスベクターを用いて欠陥のある遺伝子の正常なコピーを細胞内に送り込む「遺伝子置換」を指します。一方、遺伝子調節は、既存の遺伝子の活性(発現量)を置き換えることなく調整する技術です。アンチセンスオリゴヌクレオチド(ASO)や小分子干渉RNA(siRNA)などのツールを用いて、遺伝子のコピーであるメッセンジャーRNA(mRNA)に作用させます。遺伝子そのものを送り込まないため、遺伝子のサイズ制限を受けず、疾患の必要性に応じて発現量を増減させることができます。
●この開発は遺伝性心筋症の患者にとってどのような意味を持ちますか?
短期的には、Saturnus Bioは前臨床研究段階にあり、具体的な候補薬も公表されていないため、すぐに患者の治療が変わるわけではありません。しかし、これまで根本的な遺伝子治療の選択肢がなかった疾患に対し、大手製薬企業が本格的な開発資金を投じて参入したことは大きな意味を持ちます。将来的に臨床試験が開始されれば、患者にとって疾患修飾治療(病気の進行そのものを抑える治療)にアクセスする初の機会となる可能性があります。
●「買収前提(Build-to-Buy)」モデルとは何ですか?
製薬企業がスタートアップを共同設立して資金を提供し、将来の独占的買収オプションを保有する仕組みです。2022年以降のIPO市場の低迷により、初期段階のバイオテック企業が独立して資金を調達し上場することが難しくなったため、このモデルが再び注目されています。製薬企業にとっては研究段階の価格で有望なパイプラインを確保でき、スタートアップにとっては十分な開発資金を得られるメリットがあります。これにより、製薬企業の戦略的優先事項が、前臨床段階の研究資金の行き先をより直接的に左右するようになっています。
元記事: Genetic Heart Disease Has No Approved Cure: Merck KGaA Bets $50M on Gene Modulation Startup