『スパイダーマン:ビヨンド・ザ・スパイダーバース』カノンイベントをカオス理論で読み解く
2026年9月10日 12:55
『スパイダーマン:ビヨンド・ザ・スパイダーバース』は、2027年6月18日の全米公開が予定されている。日本では邦題が決定しているものの、公開日は発表されていない。2026年8月には未完成映像が無断で流出し、共同脚本・プロデューサーのクリストファー・ミラーが、レンダリングを終えていない映像の流出に否定的な反応を示した。
前作『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』が残した大きな問いは、マイルス・モラレスが父ジェファーソンを救いながら、自分の宇宙を守れるのかというものだ。その鍵を握る「カノンイベント」は、数学上の法則そのものではないが、力学系におけるアトラクターという概念を重ねることで、物語の対立を興味深く読み解ける。
■カノンイベントとアトラクターの共通構造
前作でミゲル・オハラは、スパイダーパーソンの人生に繰り返し現れる重要な出来事をカノンイベントと呼んだ。身近な人物の喪失や、スパイダーマンと関係する警察署長の死などがその例であり、ミゲルはこれらが「生命と運命の網」を形作る重要な節点だと説明する。
力学系でいうアトラクターは、さまざまな初期状態から出発した系が、時間の経過とともに近づいていく状態や状態集合を指す。軌道の細部が異なっていても、全体として限られた領域にとどまる場合がある。エドワード・ローレンツが1963年に示した大気対流の簡略モデルは、初期条件のわずかな違いによって軌道が大きく分かれながらも、有界な振る舞いを示す代表例となった。
カノンイベントにも、スパイダーパーソンごとに人生の経路は異なる一方、喪失や選択といった似た構造へ繰り返し近づくという特徴がある。これは作品の設定を物理学で説明するものではなく、異なる歴史が共通の節目へ収束するという情報処理上の構造に、アトラクターのイメージを重ねる見方である。
アトラクターは、自然法則のような破ることのできない命令ではない。系のパラメーターが変化すると、それまで安定していた状態が別の振る舞いへ移ることもある。こうした質的変化は分岐と呼ばれる。マイルスの物語に当てはめれば、父の死が必ず戻ってくる一点なのか、それとも彼の選択によって物語の行き先が変わる節目なのかという問いが浮かび上がる。
■ミゲルの説明は仮説として描かれている
ミゲルは、自分が別宇宙の家族のもとで暮らそうとした後、その宇宙が崩壊する光景を経験している。さらに、マイルスがムンバッタンで警察署長の死を回避した後に宇宙の異変が起きたことも、カノンイベントを守るべきだという彼の確信を強めている。
しかし前作は、異変の原因についてミゲルの説明を最終的な真理として確定してはいない。アース42では、本来そこにいた放射性クモが別宇宙へ運ばれたためスパイダーマンが誕生しなかったが、宇宙そのものは存続している。マイルスの宇宙でも、別宇宙のクモにかまれるという異例の出来事が起きている。
ミゲルは観測した事例から規則性を見いだしたが、その規則性が例外を許さない法則であるかは別問題だ。強く収束する系では、小さな介入を加えても元の状態に近い振る舞いへ戻りやすい。その観測だけを重ねれば、収束先を避けることは不可能だと判断してしまうこともある。アトラクターという概念は、ミゲルとマイルスの対立を「科学と感情」の衝突ではなく、観測されたパターンをどう解釈するかという対立として見る補助線になる。
■マイルスの出自と「外適応」の発想
マイルスをかんだクモはアース42から来たため、クモが生まれた宇宙と、その能力が使われる宇宙が一致していない。この出自は、進化生物学の「外適応」を連想させる。
外適応とは、現在の用途のために自然選択で形成されたのではない形質が、別の用途に転用されることを表す。スティーヴン・ジェイ・グールドとエリザベス・ヴルバが1982年の論文で提唱した概念であり、進化が将来の用途をあらかじめ予定しているかのような「前適応」という表現を避ける狙いもあった。
マイルス自身は生物学上の形質ではないため、外適応をそのまま適用できるわけではない。それでも、ある環境で生まれた仕組みが別の環境へ移され、当初とは異なる役割を担うという構造は共通している。別宇宙に由来する能力を自分の人生の一部へ変えたマイルスは、既存の役割を継承するだけでなく、その意味を作り直す人物として描かれている。
■ヴェノム・ブラストと発電生物
マイルスの生体電気能力「ヴェノム・ブラスト」には、発電魚が電気を作る仕組みのイメージを重ねられる。デンキウナギは、筋肉組織を起源とする特殊な電気細胞を多数並べ、それぞれの電位差を加算して強い放電を生み出す。
デンキウナギ属の一種Electrophorus voltaiでは、最大860ボルトの放電が報告されている。これはElectrophorus electricusを含むデンキウナギ属全体に一律に当てはまる数値ではない。
ヴェノム・ブラストは、こうした生物電気の発想を人間の身体とスーパーパワーへ拡張した表現だ。電気細胞が直列に並んで電位差を積み重ねるという共通構造はあるが、マイルスが手から大きなエネルギーを指向性を持って放つ仕組みは、作品独自の能力として描かれている。科学的な対応関係というより、自然界の発電機構から能力のイメージを読み解く手掛かりになる。
■スポットが体現する空間の複雑さ
スポットの身体には、物体や人物を別の場所へ通すポータルが分布している。力を得るにつれてポータルの数と接続先が増え、単純な攻撃力ではなく、空間同士の結び付きそのものを操作する脅威へ変わっていく。
トポロジーでは、図形を連続的に変形しても保たれる性質や、空間がどのようにつながっているかを扱う。スポットのポータルを数学上の「穴」や多様体のハンドルと同一視することはできないが、接続が増えるほど空間の構造が複雑になるという発想には通じる部分がある。
この視点に立つと、マイルスとスポットの対立は、大きなエネルギー同士の衝突だけではない。世界を結ぶ構造を守ろうとする者と、その接続関係を自在に組み替える者の対立としても読み解ける。
■異なる宇宙を視覚文法で伝える
スパイダーバース作品では、宇宙や登場人物ごとに異なる映像表現が使われている。CGに手描き風の線やハーフトーン、印刷の色ずれを組み合わせ、動きを毎フレームではなく2フレームごとに更新する場面もある。グウェンの世界では水彩画のような色彩が感情に応じて変化し、スパイダー・パンクは切り貼りした印刷物を思わせるスタイルで描かれる。
こうした視覚文法は、台詞に頼らず人物の所属する宇宙を伝える情報として働く。異なるスタイルの人物が同じ画面に入ると、一つの場面の中に複数の描画規則が併存し、宇宙同士の接触が視覚的に表現される。
脳の視覚処理を説明する理論の一つに予測符号化がある。上位の処理階層が下位の神経活動を予測し、実際の入力との差が誤差信号として伝わるという考え方だ。スパイダーバース作品を見たときの感覚をこの理論だけで説明することはできないが、慣れた描画規則から意図的に外れた線、色、動きが強い印象を生む理由を考える補助線にはなる。
■「法則」ではなく選択の物語
カノンイベントとアトラクター、マイルスの出自と外適応、スポットと空間の接続、宇宙ごとに異なる視覚文法には、それぞれ科学や数学の概念と共通する構造がある。これらは作品設定の正しさや実現可能性を判定するものではなく、物語が扱う運命、選択、変化を別の角度から考えるための手掛かりである。
マイルスが直面する本質的な問題は、同じ出来事が何度も観測されたとき、それを避けられない法則とみなすべきか、それとも変化し得るパターンとして捉えるべきかという点にある。前作は、カノンイベントに関するミゲルの説明を提示する一方で、マイルスをその枠組みに収まりきらない存在として描いた。
『スパイダーマン:ビヨンド・ザ・スパイダーバース』が最終的にどのような答えを示すかは明らかになっていない。公式に示されているのは、ミゲル率いるスパイダー・ソサエティに追われるマイルスが、家族を守り、再び一つにするために帰還を目指すという物語である。カノンイベントが絶対の法則なのかという問いも含め、その結末は2027年の公開を待つことになる。
元記事: Chaos Theory Reveals Beyond Spider-Verse’s Canon Events Are Patterns, Not Laws