『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』手首から出る糸を科学する―クモ糸研究との意外な共通点
2026年9月1日 12:39
映画『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』では、強い心理的負荷にさらされたピーター・パーカーの身体に変化が起こり、手首から有機的な糸を出す能力が現れる。スパイダーマンが操るクモの糸の強度にも目を引かれるが、本稿では、人体がその原料をつくり、手首から繊維として送り出すまでの仕組みに注目し、科学的な視点から考察したい。
現実の研究では、クモ糸を構成するタンパク質を哺乳類細胞につくらせることには成功している。しかし、得られたタンパク質を強靱な繊維に変えるには、原料の濃縮や化学的環境の調整、紡糸といった別の工程が必要になる。哺乳類細胞によるタンパク質生産と、遺伝子組み換えカイコによる繊維生産をたどると、ピーターの手首に備わった有機ウェブの仕組みと、現実のクモ糸研究に通じる発想が見えてくる。
■手首から糸を出すピーターの身体的変化
デスティン・ダニエル・クレットン監督、クリス・マッケナとエリック・ソマーズ脚本の『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』は、日本では2026年7月31日に公開された。『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』から4年後、誰の記憶にも残っていないピーターがニューヨークで犯罪と戦い続けるなか、重圧によって身体に異変が生じる物語である。
作中では、ピーターの手首にクモの糸に似た分泌物をつくる器官が形成される。ブルース・バナーは、ピーターの体内にあるクモ由来の遺伝的特徴と心理的ストレスを関連づけて変化を説明し、短鎖干渉RNA(siRNA)を利用する装置も登場する。
RNA干渉は、短いRNA分子を利用して特定の遺伝子の働きを抑える仕組みである。典型的なsiRNAでは、細胞質にあるRNA誘導サイレンシング複合体(RISC)に取り込まれた鎖が、対応するメッセンジャーRNAを認識して切断や分解を促し、タンパク質の生成を抑える。
作中の装置には、この遺伝子発現を抑制する仕組みが応用されている。標的となる遺伝子に対応したsiRNAを利用し、ピーターやバナーの身体的な変化を抑えるという発想であり、現実のRNA干渉をウェアラブル機器と結びつけた設定となっている。
■クモは腹部の出糸突起で糸を操る
クモの糸は、腹部にある複数の糸腺でつくられる。液状のクモ糸タンパク質は管を通過する過程で、酸性度やイオン組成、水分量、せん断力などの影響を受け、固体の繊維へ変化する。形成された糸は、腹部の出糸突起と、その表面にある多数の吐糸管を通じて外へ送り出される。
クモは用途の異なる複数種類の糸を使い分ける。網の骨組みや移動時の命綱になる牽引糸、獲物を捕らえる粘着性の糸、卵を包む糸などがあり、それぞれに関係する糸腺と吐糸管が存在する。
出糸突起は、クモの腹部に位置する付属肢由来の器官と考えられている。近年の進化発生学研究では、クモ類の祖先に起きた全ゲノム重複と、腹部や付属肢の形成に関わる遺伝子群が、出糸突起の進化に関与した可能性が調べられている。
ピーターの手首には、タンパク質の合成、貯蔵、液体から繊維への変換、糸の排出と制御という一連の機能が集約されていると考えられる。クモ糸タンパク質をつくるだけでなく、複数の組織を連携させ、安定した繊維を必要なときに送り出す構造まで備えていることになる。
■哺乳類細胞でもクモ糸タンパク質はつくれる
2002年、Nexia Biotechnologiesのアンソウラ・ラザリスらは、クモの牽引糸を構成する組換えタンパク質を哺乳類細胞に生産させた研究を科学誌『Science』で発表した。
研究チームは、クモ糸タンパク質をコードする遺伝子をウシ由来の乳腺細胞とハムスター由来の腎細胞に導入し、可溶性タンパク質を細胞外へ分泌させた。回収したタンパク質を濃縮し、液体から繊維をつくる湿式紡糸を行ったところ、連続した糸が得られた。繊維の靱性と弾性率は天然の牽引糸に匹敵する一方、引張強度は天然糸より低かった。
この研究が示したのは、哺乳類細胞をクモ糸タンパク質の生産装置として利用できるという点である。細胞が分泌したのは可溶性タンパク質であり、繊維への変換には細胞外での濃縮と紡糸が必要だった。
映画のピーターの身体には、タンパク質をつくる細胞だけでなく、原料を貯蔵し、条件を調整しながら繊維化し、糸を外へ送り出す器官まで備わっていることになる。この「タンパク質をつくる工程」と「使える繊維へ加工する工程」の違いが、作品設定と現実の研究を結ぶ中心的な共通構造である。
■カイコの紡糸能力を利用する研究
クモ糸タンパク質の生産には、細菌、酵母、植物、哺乳類細胞など、さまざまな生物が利用されてきた。なかでもカイコには、糸の原料をつくり、繊維として繭を形成する一連の器官が初めから備わっている。
2012年に『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』へ掲載された研究では、カイコとクモの糸タンパク質を組み合わせた遺伝子を導入したカイコが、複合繊維をつくることが示された。その繊維は通常のカイコ糸より平均して高い靱性を持ち、天然のクモの牽引糸に匹敵する靱性を示した。
この方法では、遺伝子工学によって糸の構成タンパク質を変えながら、カイコがもともと備えている糸腺と紡糸の仕組みを利用する。新たな紡糸器官を別の生物につくるのではなく、すでに完成している生物学的な製造システムへクモ糸の特徴を組み込む発想である。
米Kraig Biocraft Laboratoriesも、遺伝子組み換えカイコによる組換えクモ糸の量産を進めている。同社は2026年6月、1回の生産サイクルとして過去最大となる約2.5トンの繭を収穫したと発表した。8月には、次の生産サイクルで従来記録を30%以上上回ったとしている。
これらは同社が公表した繭の生産量であり、最終的に得られる繊維の量や品質、販売規模とは区別して見る必要がある。研究室でタンパク質を生産する段階から、カイコの飼育、繭の収穫、製糸を継続できる生産体制へ移行する取り組みとして注目される。
■ストレスと遺伝子発現を結ぶ発想
映画は、ピーターが受ける継続的な心理的負荷を身体変化の引き金として描いている。生物学の研究でも、慢性的なストレスは視床下部・下垂体・副腎系を介してホルモンや免疫系に影響し、遺伝子発現やDNAメチル化を含むエピジェネティックな変化と関連することが報告されている。
こうした変化の方向や大きさには、対象となる組織、遺伝的背景、ストレスを受けた時期など、さまざまな要因が関係する。NR3C1やFKBP5などストレス応答に関係する遺伝子についても、トラウマや精神疾患との関連が研究されているが、その現れ方は一様ではない。
作品では、遺伝子発現を調節するという発想が、ピーターの体内に潜んでいたクモ由来の特徴が表面化する物語へつなげられている。環境からの入力が遺伝子の働き方に影響し、身体の出力を変化させるという情報処理の構造に、現実のストレス研究と通じる部分がある。
■有機ウェブが浮かび上がらせる二つの課題
クモ糸研究では、目的のタンパク質を効率よく生産する技術と、そのタンパク質を優れた繊維へ変換する技術の双方が求められる。前者では多様な生物を生産宿主として利用できるようになったが、後者では天然の糸腺が行う精密な環境制御をどのように再現するかが重要になる。
『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』の手首から出る糸は、この二つの工程を一つの身体器官に収めたイメージである。使用者の意思を受けて必要な量の糸をつくり、その性質や射出を制御する仕組みは、原料の合成、繊維化、出力制御を統合した生物学的インターフェースとして読み解ける。
現実の研究が採っている有力な方法の一つは、カイコのように完成した紡糸システムを持つ生物を活用することだ。映画の有機ウェブは、クモ糸タンパク質そのものの強さだけでなく、それを自在に操れる糸へ仕上げる器官の高度さにも目を向けさせる設定となっている。
元記事: Spider-Man: Brand New Day’s Silk Is Commercially Real; Wrist Location Breaks Biology