小さな命を救う「特別養子縁組制度」成立の背景に、慟哭のドラマがあった。『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』

プレスリリース発表元企業:株式会社小学館

配信日時: 2020-05-22 11:30:00

遊郭で育った男が医療の闇、昭和の闇に光を灯す。本年必読の書!

石巻の産婦人科医が法を犯してでも守りたかった小さな命――。



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「命」や「貧困」をめぐる問題に真正面から向き合ってきた著者が、1970年代に起きた「赤ちゃんあっせん事件」の真実を描く。

1926年石巻で四男一女の末っ子として生まれた菊田昇。昇が生まれてまもなく、母ツウは貧しさから抜け出すために借金をして遊郭・金亀荘を買い取った。忙しかった母の代わりに昇の身の回りの世話をしていたのは、若き遊女アヤとカヤの姉妹だった。
ある日、昇は母のいいつけでカヤの闇中絶に付き添うが、行く途中、口論になりカヤを置いてきた。堕胎後、カヤは出血多量で倒れ病院で息を引き取った。

«アヤのむせび泣く声が室内に響いている。昇が拳を握りしめていると、ツウはつよい口調で言った。
「おらが、昇さ医者になれって言っているのは、このためなんだど」
「どういうことだ」
「おめなら、遊女たちの気持ちがわがるべ。カヤを哀れだと思うなら、彼女たちを助けてやれるような医者さなれ。病気、妊娠、堕胎、いろんなごどで力さなれるべし、おめにしかでぎねえごどはあるはずだべ」
「おらにできるごど・・・・・・」
「おめは、石巻さ必要な人間なんだど。何度も言うように、おらが何とがしておめを大学さいがせでやる。んだから、おめは医者さなって、自分を必要としている人のために生ぎろ。わかったな」
昇はカヤの顔を見ながら、医者になれば彼女のような遊女を助けることはできると思った。何より、今も大勢の遊女がそういう医者を必要としているはずなのだ。»

生ぬるい正義では太刀打ちできない不条理の数々を目の当たりにしてきた昇は、東北大学医学部に進学後、産婦人科医になり菊田産婦人科医院を開いた。けれども、そこにも、非情な現実が待ち構えていた・・・・・・。
1988年以前、人工妊娠中絶は妊娠7か月まで可能だった。ところが、まれにこの時期の胎児が母体外でも生命を保ち、産声を上げることがあった。医者は親たちの事情を慮り、それを放置して「死産」とするしかなかった。さらには、妊娠8か月以上の場合でも、堕胎を引き受ける医院が存在した。こうした状況に憤りを感じた昇は「小さな命」を救うために、婦長のたえ子らとともに立ち上がる。
望まぬ妊娠をした女性と子供を望む夫婦の橋渡し――。
それは法を犯すことでもあった。

«「俺が赤ん坊を殺すのも、別の医者に殺されるのももうたくさんだ。赤ん坊ば救うには、この方法しかねえ」
たえ子は唾を飲んだ。
「もし医院としてやるなら、相当の覚悟が必要です。最悪、先生が逮捕されて医院がつぶれるぐらいのことまで考えておかないとならねんです」
「わがってる。んだからまず、たえ子さんに同意を求めでんのさ」
昇の声は落ち着いていた。
「どうだ? どうせ違法行為をやるなら、命ば助けるために俺はやりてえ」
たえ子はしばらく下を向いて考えた後、はっきりとした声で言った。
「菊田医院は先生のものです。私は先生さついでいぎます」»

ノンフィクションの旗手が、「特別養子縁組制度」成立に尽力した男の実話を元に小説を紡ぐ。遊女たちの悲哀に打ちのめされてきた幼少期から制度成立に至るまで、すべてが運命の糸のように絡み合う昇の人生。医師会から処分され、刑事罰を受けても尚、信念を貫いた姿に幾度も目頭が熱くなる。
菊田昇さんは1991年、国連の非政府機関である国際生命尊重会議が設けた第二回「世界生命賞」を受賞(第一回の受賞者はマザー・テレサ)。受賞理由は、胎児を中絶から守り、その人権を訴えたことだった。
「特別養子縁組制度」は1988年に成立したが、もし彼の闘いがなかったら、行き場のない子供たちが増えていたに違いないと、暗澹たる思いに沈む。
誰もが知っておくべき「医療の闇」「昭和の闇」に光を灯した男の物語。


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【著者プロフィール】
石井光太(いしい・こうた)
1977年東京生まれ。作家。『蛍の森』『砂漠の影絵』『世界で一番のクリスマス』『死刑囚メグミ』などの小説のほか、『絶対貧困─世界リアル貧困学講義─』『遺体─震災、津波の果てに─』『「鬼畜」の家─わが子を殺す親たち─』などのノンフィクションも数多く手掛ける。

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