記事を印刷する | ウィンドウを閉じる

串カツ田中に覚える、縁は異なもの味なもの

2020-06-22 16:25:14

 縁は異なもの味なもの。趣味の四季報遊びをした。無造作に開いた頁に面白そうな企業はないかを探す遊びである。【拡大路線】の見出しがついた串カツ田中ホールディングス(串カツ田中)に出会った。調べてみた。至った結論が「縁は異な・・・」だった。

【こちらも】コロナ禍の収束に備えるビーロットの戦略

 「常にB級グルメのトップを標榜する」という。2015年11月期から前11月期まで5期間の平均増収率・同営業増益率は「50.2%、30.54%」。そして今期も「30.6%増収、8.1%営業増益」計画でスタート。だが第2四半期入口でコロナウイルス禍の影響を受けた。順調に推移していた既存店売上高が、3月は前年比77.4%と急減。多分に漏れず「時短営業」「休業」等の結果。「テイクアウト」「出前(出前館等に会員登録)」など手は打ったが、さて今後は。株価も1月の2514円から4月の863円まで下落し、現時点は1700円台入口と戻り基調。

 収益動向等もさることながら、今日の串カツ田中に至る軌跡に興味を覚えた。

 原点は、田中洋江副社長の幼き時代の体験。大阪の西成で育った。大衆的な串カツ屋が多かった。父:勇吉氏に連れられ串カツをよく食べた。田中氏は、こう言っている。

 「父は独自の串カツのレシピを作った。父の作る串カツはお店で食べるのと比較しても遜色のない完成度。いつか父のレシピで作る串カツで商売を、という思いがあった」

 が、洋江氏は学校を卒業後、広告代理店に職を求めた。「父のレシピで串カツ田中をという思いは、(現社長の)貫(ぬき)啓二氏との出会いで実現した」(洋江氏)という。彼女はなかなかの左党だったらしい。とあるバーで貫氏と出会った。

 貫氏は「いずれ自分の会社・店を持ちたい」という夢を抱きながらも、トヨタ車輛に就職した。そして10年後、27歳の時に退職しショットバーを開いた。洋江氏は客。だがある日「私、店を手伝う。パート代は飲み代」という仕儀に。

 しかし貫氏は「カクテルを作る時は、教科書を見ながら」という状態。長くは続かなかった。が、「自分の店」が諦めきれなかった。2001年に「デザイナーズレストラン」を開店。TVで取り上げられるほどだった。その勢いで03年に東京・青山で個室型の「京懐石料理店」をオープン。洋江氏とパートナーを組み展開。それなりに繁盛した。が、スタッフ不足などで大繁盛の階段を上れなかった。リーマンショックの影響にも晒された。結局7000万円の借金を背負い込んだ。

 そんなタイミングで洋江氏が持ち出したのが、亡き父が残したレシピを活かした串カツ屋だった。貫氏も、とりわけその独特なソースに惹かれた。串カツ田中は、こうして生まれた。

 思う。貫氏の「自分の店」スピリットが中途半端だったら、洋江氏が左党でなかったら「串カツ田中」は登場していなかったかもしれない。

© Copyright Zaikei Shimubun 2020 All rights reserved.