量子コンピューターで「弦の切断」を再現、IBM・デューク大などが物質形成の過程を探る

2026年9月25日 16:54

印刷

記事提供元:Tech Times

研究者らは、ビッグバンに関連する問題の解明に役立つ可能性がある「弦の切断」の動的な過程を、量子シミュレーターで観測した。画像は弦の切断を表現したイメージ図。(写真:Emily Edwards, Duke University)

研究者らは、ビッグバンに関連する問題の解明に役立つ可能性がある「弦の切断」の動的な過程を、量子シミュレーターで観測した。画像は弦の切断を表現したイメージ図。(写真:Emily Edwards, Duke University)[写真拡大]

米IBMの超伝導量子プロセッサー、米デューク大学のトラップドイオン型量子シミュレーター、米QuEra Computing(クエラ・コンピューティング)の中性原子型量子シミュレーターを用いた研究で、粒子の形成に関わる「弦の切断」と呼ばれる現象の実時間シミュレーションが報告された。異なる方式の量子計算機による成果は、物質を構成する粒子が形成される過程を、量子力学の基本法則に基づいて計算するための新たな手掛かりとなる。

デューク大学の研究チームは2026年9月23日、13個のイオンを用いて弦切断の時間発展を観測した研究成果を科学誌「Nature Physics」に発表した。これに先立ち、ローレンス・バークレー国立研究所(LBNL)の研究者はIBMの104量子ビットを用いた実験を2025年3月に発表しており、QuEraの中性原子型量子シミュレーターでも2025年6月に関連研究が報告されている。

■物質を構成する粒子はどのように形成されるのか

陽子や中性子は、クォークと呼ばれる素粒子が強い相互作用によって結び付いた複合粒子であり、ハドロンと総称される。高エネルギーの粒子衝突では、生成されたクォークやグルーオンが複合粒子を形成する「ハドロン化」と呼ばれる過程が起こる。

強い相互作用を記述する基本理論が量子色力学(QCD)だ。クォークは「色荷」と呼ばれる性質を持ち、グルーオンを介して相互作用する。クォークと反クォークを引き離すと、両者を結ぶ色の力の場にエネルギーが蓄積され、条件によっては新たなクォーク・反クォーク対が生成される。これにより、両者を結ぶ弦状の構造が切断される現象を「弦の切断」と呼ぶ。

ハドロン化は極めて短い時間で進むため、その詳細な時間発展を実験で直接追跡することは難しい。高エネルギー衝突実験では、観測データに基づいて調整したモンテカルロ・シミュレーションなどが、最終的に生成される粒子の予測に利用されている。

一方、QCDから粒子形成の時間発展を直接計算することには、計算量の面で大きな課題がある。量子系では、粒子間の相互作用や量子もつれによって、系全体を記述するために必要な情報量が急増する場合がある。さらに、格子QCDで広く用いられるモンテカルロ法を実時間の量子ダイナミクスに適用すると、複素数の振動的な寄与を統計的に扱うことが難しくなる「符号問題」が生じる。

格子QCDは、1974年にケネス・ウィルソンが提唱した格子ゲージ理論の枠組みに基づき、陽子などの質量や、強い相互作用を受ける物質の熱的性質の計算に成果を上げてきた。しかし、非平衡状態における粒子生成の時間発展を第一原理から計算することは、依然として難しい課題となっている。

量子コンピューターは、量子ビットの重ね合わせや量子もつれを利用し、量子系の状態と時間発展を別の量子系で表現できる。古典計算で問題となる振動的な確率重みを直接サンプリングする必要がないため、従来の計算手法では扱いにくい実時間ダイナミクスを調べる手段として期待されている。

■IBMの104量子ビットで弦切断をシミュレーション

LBNLのアンソニー・チャバレラ研究員は、IBMの超伝導量子プロセッサー「Heron」を利用し、弦切断に伴う粒子対生成の実時間シミュレーションを実施した。研究成果は2025年3月3日、科学誌「Physical Review D」に掲載された。

実験には、156量子ビットを備えるIBMのHeronプロセッサー「ibm_torino」のうち、104量子ビットを使用した。米オークリッジ国立研究所のオークリッジ・リーダーシップ・コンピューティング施設(OLCF)が運営する量子コンピューター利用プログラム「QCUP」を通じて、量子計算機に遠隔アクセスした。

研究では、現実のQCDをそのまま計算する代わりに、重要な物理的特徴を残した簡略化モデルを採用した。主な簡略化は、重いクォークを対象とすること、空間次元を1つに限定すること、実際のQCDとは異なるSU(2)ゲージ理論を使用することの3点だ。

重いクォークを対象とすることで、クォークの運動に伴う波動関数の広がりを抑え、計算に必要な量子状態の数を減らせる。また、粒子が移動する方向を1次元に限定することで、3次元空間を扱う場合に比べて量子ビットへの対応付けを簡略化できる。

実際のQCDは3種類の色荷を扱うSU(3)ゲージ理論だが、今回の研究では2種類の色荷を扱うSU(2)を採用した。SU(2)でもクォークの閉じ込めや弦切断に関わる性質を調べられるため、より複雑な理論へ研究を進めるためのモデルとして利用されている。

この構成により、研究チームは重いクォーク極限における1+1次元のSU(2)格子ゲージ理論を量子回路上に実装した。クォークと反クォークに相当する初期状態を準備し、時間発展に伴って新たな粒子対が生成される過程を調べた。

■100量子ビットを超える量子状態の準備

シミュレーションで重要な課題となったのが、物理的に意味のある初期状態を量子コンピューター上に準備することだ。量子真空や粒子を含む状態を多数の量子ビットで正確に表現するには、複雑な量子回路が必要になる。

チャバレラ研究員は、この課題に対応するため、SC-ADAPT-VQEと呼ばれるスケーラブルな変分量子アルゴリズムを利用した。小規模な系で量子状態を準備する回路を最適化し、系の大きさに応じた回路パラメーターの変化を調べることで、より大規模な系に適用する手法だ。

オークリッジ国立研究所の発表によると、10~12量子ビット程度の系で回路を最適化し、その結果を数百量子ビット規模まで外挿することを想定している。大規模な系について最初から回路全体を最適化する場合に比べ、初期状態の準備に必要な計算資源を抑えられる可能性がある。

この手法は、チャバレラ研究員とワシントン大学の研究者らが2024年に発表した、112量子ビットを用いたシュウィンガー模型の研究にも利用されていた。シュウィンガー模型は、1次元空間における量子電磁力学を記述する理論モデルで、量子場の時間発展を研究する際に用いられる。

今回の研究では、初期状態を準備した後に量子回路を実行し、粒子対生成の時間発展を調べた。IBMのHeronは、各量子ビットが主に2個または3個の隣接量子ビットと接続する「heavy-hex」と呼ばれる構造を採用している。

■弦の内部に現れた熱的な振る舞い

104量子ビットによる実験では、量子計算機に生じるノイズの影響を軽減する処理を施した結果、弦切断の初期段階について古典計算による参照結果と整合する時間発展が得られた。研究チームは、簡略化したゲージ理論における粒子対生成の過程を、実際の量子ハードウェア上で追跡できることを示した。

注目されるのは、弦の切断に先立って、その内部に熱的な振る舞いが現れるという結果だ。チャバレラ研究員はオークリッジ国立研究所の発表で、グルーオン弦の中央部が切断前に有限温度の気体のような状態へ変化し始める様子を、シミュレーションで再現したと説明している。

クォーク間の弦状の場には、粒子が引き離されるにつれてエネルギーが蓄積される。今回の計算では、そのエネルギーを持つ弦の内部で、粒子対生成に先立つ熱的な振る舞いが示された。

チャバレラ研究員は、異なる簡略化モデルでも同様の現象が再現されれば、現実のQCDにおいても見られる特徴である可能性が高まるとの見方を示した。今後、より現実的なモデルで同様の時間発展を調べることが、強い相互作用における粒子生成と熱的な振る舞いの関係を理解する手掛かりとなる。

■デューク大学は13個のイオンで弦切断を観測

デューク大学量子センターを中心とする研究チームは2026年9月23日、トラップドイオン型量子シミュレーターを用いた弦切断の研究成果を「Nature Physics」に発表した。研究には、デューク大学のクリストファー・モンロー教授のほか、メリーランド大学、オックスフォード大学、カリフォルニア工科大学、コーネル大学、ルーヴェン・カトリック大学などの研究者が参加した。

実験では、13個のイオンを鎖状に配置し、それぞれのイオンに照射するレーザーを制御することで、1+1次元のZ₂格子ゲージ理論に対応する量子系を構成した。外部に固定された電荷と、その間に伸びる弦に相当する状態を準備し、弦の張力を急激に変化させた後の時間発展を観測した。

研究チームは、弦の張力が弱い場合には、生成された電荷が弦の端付近で局所的な振動を示すことを確認した。一方、張力を強めると、端付近で生成された電荷対が弦の内部に向かって広がる様子が観測された。

この結果は、弦の内部で一様に粒子対が生成されるという従来のシュウィンガー機構とは異なる、端部から進行する弦切断の仕組みを示している。研究チームは、電荷密度や電場の時間発展を空間的に分解して測定し、古典計算による数値シミュレーションとの比較から、その過程を詳しく調べた。

モンロー教授は大学の発表で、量子コンピューターによるシミュレーションが、物質形成のような複雑な問題を研究するための有力な手段になると述べた。共同研究者であるメリーランド大学のゾーラ・ダヴーディ准教授も、非平衡物理モデルから得られる小さな知見が、今後の研究の指針になるとの見方を示している。

■QuEraの中性原子型量子シミュレーターでも研究が進展

中性原子方式では、QuEra Computingの量子シミュレーター「Aquila」を用いた研究成果が2025年6月に科学誌「Nature」に発表された。インスブルック大学、ハーバード大学、QuEraなどの研究者が参加した研究で、2次元の量子シミュレーターによる弦切断の観測を報告している。

研究チームは、光ピンセットを用いて数十個規模のルビジウム原子をカゴメ格子状に配置し、レーザーによって原子間の相互作用を制御した。この系を利用して閉じ込めを示す格子ゲージ理論を模擬し、弦状の構造が形成され、切断される過程を調べた。

QuEraの発表によると、研究チームは弦の張力に相当するパラメーターを変化させ、粒子対生成に伴う弦切断の平衡状態での特徴と、実時間でのダイナミクスを観測した。2次元の系では弦の曲がりや揺らぎも扱えるため、1次元モデルから研究対象を広げるための重要な段階となる。

IBMを用いた研究、デューク大学の実験、QuEraの中性原子型量子シミュレーターによる研究は、使用するハードウェアだけでなく、採用する理論モデルや空間次元も異なる。これらの成果は、複数の量子計算方式で閉じ込めや弦切断に関わる量子ダイナミクスを調べられることを示している。

■LHCの粒子物理学への応用に向けて

欧州原子核研究機構(CERN)の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)では、高エネルギーの粒子衝突によって生成される多数の粒子を観測し、物質の基本法則を調べている。ATLASやCMSなどの実験では、衝突後の粒子生成を予測するため、観測データに基づいて調整したモンテカルロ・イベント生成器が利用されている。

ハドロン化の詳細をQCDの第一原理から計算できるようになれば、こうした生成器の予測を独立した理論計算と比較し、モデルの精度を検証するための新たな情報が得られる可能性がある。粒子間の相関や量子効果をより詳しく調べることは、衝突実験で得られるデータの解釈にもつながる。

今後の課題は、簡略化した格子ゲージ理論から、現実の強い相互作用を記述する3次元空間のSU(3)量子色力学へ研究を進めることだ。チャバレラ研究員は、次の段階として空間次元を1つ追加する計画を示しており、より現実的なクォーク質量を扱うことも課題となる。

量子計算機の性能向上も重要となる。IBMは公開ロードマップで、200論理量子ビットを用いて1億回の量子ゲート演算を実行できる耐故障性量子コンピューター「Starling」を2029年に提供する目標を掲げている。さらに2033年以降には、2000論理量子ビットで10億回のゲート演算を実行できる「Blue Jay」の実現を目指す。

今回の一連の研究は、異なる方式の量子計算機を利用して、粒子対生成や弦切断の時間発展を調べる手法が進展していることを示した。今後、計算規模の拡大と理論モデルの高度化が進めば、ハドロン形成の詳細を基本法則から理解するための新たな計算手段につながる可能性がある。

元記事: IBM, Duke, and QuEra Quantum Computers Each Independently Simulated Proton Formation

※この記事はTech Timesから提供を受けた記事を日本向けに翻訳・編集したものです。

関連キーワード