ロンドンの中のロンドン:シティ・オブ・ロンドンの生存戦略【フィスコ世界経済・金融シナリオ分析会議】

2020年2月19日 12:29

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記事提供元:フィスコ


*12:29JST ロンドンの中のロンドン:シティ・オブ・ロンドンの生存戦略【フィスコ世界経済・金融シナリオ分析会議】
■二つのロンドン
大多数の人は、ロンドンと聞いたら、議会やバッキンガム宮殿などが入っている「大ロンドン(グレーター・ロンドン)」を思い浮かべると見る。しかし、「ロンドン」と言っても、実は2つロンドンがある。正式なロンドンの地図を見ると、ほぼ真ん中に1平方マイルほどの「穴」があることに気づくだろう。この「穴」こそもう一つのロンドンである、(ロンドンの中に存在する別のロンドンの愛称は「スクエア・マイル」で、これは1平方マイルの面積を有することから由来する)。本記事ではそのロンドンの中にあるロンドン、「シティ・オブ・ロンドン」の歴史について簡単に述べたいと思う。

「ロンドン」と名乗る自治体は2つある。いわゆる「ロンドン」と「シティ・オブ・ロンドン(以下、シティ)」である。シティが人口11,000人に対して、大ロンドンは700万人ほどだ。自治体は事実上2つあり、市長も別々で、徴税や警察の管轄も別々である。特にシティでは、他の自治体では見られない法律や慣習がある。

市長の正式名称からもその違いが見られる。ロンドンの市長はただの「Mayor」(メイアー)であるのに対して、シティ市長は「The Right Honourable, The Lord Mayor of London」である。シティ市長は名誉職のきらいがあるにせよ、Lord Mayorを訳そうとするのなら「市長卿」になるので、その地位の(名目的な)高さがうかがえるだろう。

ロンドンとの差は他にもあり、シティには独自の紋章と旗も有する。シティのこのような独自性を見ると、ものすごく乱暴に定義しようとすれば、英国内のスコットランド、ウェールズ、北アイルランド、イングランドとほぼ同等の自治を有していると考えて良いかもしれない。

シティを運営する「コーポレーション」(自治体の名前が「コーポレーション・オブ・ロンドン)は、イギリスという国体よりも更に数百年古い歴史を有しており、ブリテン島に存続する政体としては一番古いものになる。この何よりも古く存在しているという特色が、後程言及する「権利」の基礎となっているところがある。

■シティの成り立ち
シティが存在する第一の理由は、ローマ人にある。ローマ人がブリテン島に上陸した後、テムズ川の、現在のシティとほぼ同じ場所で「ロンディニウム」という要所を建設した。当時ローマ人が作った城壁が今のシティをほぼ囲むものとなった(城壁そのものはほぼなくなり、一部でしかその跡を見られない)。

ローマ帝国が事実上ブリテン島から撤退しても、ロンディニウムがその後も自治を続けた。結果、周りで様々な王国が興亡を繰り返すなか、ひたすらテムズ川の要所にあることを活用して、自治体として商業活動を続けて非常に裕福になった。

概ね西ローマ帝国崩壊から600年後、ノルマンディー公ウィリアム(征服王)が上陸した後、ウィリアム公はシティの城壁が非常に堅牢と感じたため、シティの権利を認める代わりに、シティに彼を国王として認めることに合意させた。この合意によって、千年近く続く伝統・慣習として、国王が即位をする際、シティの歴史と権利を認めると宣言する。一方、国王は基本的に権力者らしく、独自な自治体であるシティを信用しないということを繰り返してきた。最初の不信を表す出来事としては、合意のほぼ直後、シティのすぐ外に、ウィリアム公によるロンドン塔の建設が開始された。これは、川をのぼってくるヴァイキング対策でもあるが、シティの隣に建設したことはシティそのものを監視するという役割を持っていることを意味する。この他に、英国の政治的中心地にウェストミンスターがある。これを建設した基本思想も、国王がシティのライバルを作って、権力と富をシティ以外にも流れさせることを目論んだものと考えられる。ウェストミンスターが最終的に周りの町村を飲み込み、今皆が知っているロンドンになったが、それでもシティを飲み込むことができないまま今に至る。

■シティの独特な立ち位置
シティには様々な法律や不文律の慣習がある。慣習の中で一番分かりやすいものには、在位の国王はシティ市長の許可がないと、シティに入れないというものがある。他にも、シティ独自のものとして、イギリス議会にも議員(王室債権徴収官、レメンブレンサーと呼ぶ)を派遣し、シティの権利を蔑ろにするような法律が提案されるのをストップする役割を持つ。シティの歴史的な権利を守ることを通じて、全国に適応されるが、シティにのみ適応されない法律もある。この中で最も重要なのは、投票に関する法律である。

なぜこの投票に関する法律がシティに当てはまらないかは、シティの自治がこれまでどのようにして動いてきたのかと密接に関係している。また別の機会で見てみたいと思うが、シティの投票方法は非常に独特だ。一応住民の投票という体ではあるが、シティ内の自由市民の他に、中世から続くギルドによる票と、シティで活動している企業の票が混在して、これが他の選挙方法より複雑な元になっている。

シティの境界外でも、シティは土地や建物(駅や中央刑事裁判所や、ランドマークの一つであるタワーブリッジなどその他多く)を保有・運営していて、これらの司法的な管轄(例えば、ある市場の治安を管轄する警察)がシティになっているものもある。よって、ロンドンやロンドンの外でもシティの紋章が付く建物や土地がある。

このようなシティの独自性が様々あるにしても、注意すべきなのは高度な自治を有しているが、ヴァチカンのような独立国ではないことである。

■シティが独自性を保った理由は?
シティが「太古の昔(Time Immemorial、最古の明文化された文書よりもさらに昔からある、「記録を超越した」というニュアンスが強い)」からの権利を守りながら無事に生き延びることができたのは、昔にあった防衛体制が起源であると見られる(ウィリアム公がイングランドに上陸した後、シティそのものが物理的に攻撃されにくい体制(城壁など)を維持し、攻撃側が攻城を断念してその権利を認めるという合意を引き出すことに成功)。

時代が下がるにつれて、当時は便宜的であった合意を、マグナカルタに盛り込むことなどで完全に明文化されることになり、シティが国内の法律に守られるという体制に組み込まれることにつながった。最終的には、その特異かつあやふやな存在を、法律以外でも「慣習」になるまでしぶとくその権利を主張し続け、これを保つことに成功した。小さい政体がより大きい政体に対して独自性を保つという原理(上記のように物理的に攻略が難しいのを最大限利用して、その権利が明文化されるまでに保つ)は、スイスや他の非常に小さい独立国にも適用できる生存戦略と見られる。

なお、余談ではあるが、アンドラとサンマリノという非常に小さい独立国も似たような形でその独自性を確立したと考えられる。アンドラは元々イベリア半島のイスラム圏に対する緩衝地帯の残り香のようであったのと、近隣貴族間のもめごとに対する妥協案として存続した。サンマリノも独自の自治体としてローマ崩壊後から長く存在し、非常に攻めにくい場所にあるため、数回攻め入れられるもこれを撃退し、その独立が明文化するまで生存することに成功という歴史がある。

地経学アナリスト 宮城宏豪
幼少期から主にイギリスを中心として海外滞在をした後、英国での工学修士課程半ばで帰国。日本では経済学部へ転じ、卒業論文はアフリカのローデシア(現ジンバブエ)の軍事支出と経済発展の関係性について分析。大学卒業後は国内大手信託銀行に入社。実業之日本社に転職後、経営企画と編集(マンガを含む)を担当している。これまで積み上げてきた知識をもとに、日々国内外のオープンソース情報を読み解き、実業之日本社やフィスコなどが共同で開催している「フィスコ世界金融経済シナリオ分析会議」では、地経学アナリストとしても活躍している。

写真:Alamy/アフロ《SI》

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