生きたヒト神経細胞を使う「生物学的データセンター」、シンガポールで試作機を公開
2026年8月18日 14:27
シンガポール国立大学(NUS)医学部、データセンター事業者のDayOne、オーストラリア発のCortical Labsは、生きたヒト神経細胞を組み込んだ「生物学的データセンター」のプロトタイプをNUS生命科学研究所に設置し、2026年8月6日に関係者向けの公開イベントを開いた。NUS医学部は8月17日、この取り組みを正式に発表した。
プロトタイプは、Cortical Labsが開発した生物学的コンピューター「CL1」20台で構成される。各装置には約80万個、全体では約1600万個の培養ヒトニューロンが使われている。3者は、生体ニューロンを利用するデータセンター型プロトタイプとして世界初をうたっているが、現段階では商用データセンターの本格運用ではなく、研究と技術検証を目的とする試作システムである。
■生きたニューロンとソフトウェアを接続
ニューロモーフィック・コンピューティングでは一般に、神経系の情報処理を参考に設計したシリコン回路を利用する。これに対してCL1は、生きた培養ニューロンを多電極アレイと組み合わせ、細胞へ電気刺激を与えるとともに、その活動を読み取る。
各CL1では、成人ドナーの皮膚や血液に由来する細胞を人工多能性幹細胞へ初期化し、大脳皮質ニューロンへ分化させた細胞を利用する。ニューロンはシリコン基板上の電極と接続され、装置内のソフトウェアから電気的な入力を受け、その応答が再びソフトウェアへ返される。入力、神経活動の記録、次の入力という閉ループをリアルタイムで構成できる点が特徴だ。
この構造は、Cortical Labsの研究チームが開発した「DishBrain」の研究を発展させたものだ。2022年に学術誌『Neuron』へ掲載された研究では、ヒトまたはマウス由来の培養神経ネットワークを、多電極アレイを介して卓球ゲーム「Pong」を模した仮想環境に接続した。構造化されたフィードバックを与えた実験では、対照条件では確認されなかった成績の改善が実時間のゲーム開始から5分以内に観察された。
この研究は、培養ニューロンが人間のようにゲームのルールを理解したと示すものではない。ニューロンの活動と外部環境を双方向に結び、行動の結果に応じた刺激を返すことで、細胞集団の活動がどのように変化するかを調べる実験である。生体ネットワークに入力を与え、その応答を機器の出力や次の刺激へ変換する情報処理構造を研究する手掛かりとなる。
研究チームは別の研究で、同じゲーム環境における培養神経ネットワークと複数の深層強化学習アルゴリズムを比較した。限られた実時間内の試行では、培養神経ネットワークが一部のゲーム指標でより速い改善を示したと報告している。一方、この比較は単純化された特定の実験環境に関するものであり、汎用的なAI処理能力や計算速度を比較した結果ではない。
理論神経科学者のKarl Friston氏は2025年のIEEE Spectrumの取材で、CL1を「本物のニューロンを使う、商用提供可能な生体模倣コンピューター」とみなせるとの見方を示した。そのうえで、最大の意義は通常のコンピューターを置き換えることではなく、科学者が小規模な合成神経ネットワークを使って実験できる基盤を提供する点にあると述べている。
■細胞を維持する機構を装置内に統合
CL1には、ニューロンと多電極アレイに加え、細胞を維持するための循環・温度管理・ガス制御・ろ過機構が組み込まれている。培養液から栄養を供給し、温度や液体の状態を管理しながら、代謝によって生じる老廃物を取り除く。
Cortical Labsによると、この環境ではニューロンを最長約6カ月維持できる。これは保証された寿命ではなく、同社が装置の設計上示している最長期間である。長期利用には、培養状態の監視や細胞の交換、品質のばらつきへの対応が必要になる。
生体材料には、成長状態、電極との接続、活動パターンなどに個体差や時間変化がある。そのため、長期間にわたる再現性、装置ごとの出力の標準化、細胞交換後の性能評価は、データセンター型システムとして規模を拡大するうえで重要な研究課題となる。
CL1は、こうした管理機構を単体の筐体に収めた点に特徴がある。利用時に専用の培養装置を外部へ多数接続するのではなく、記録、アプリケーションの実行、生命維持を一つの装置に統合している。
■低消費電力の可能性を検証
Cortical LabsがIEEE Spectrumに示した数値では、CL1を収容するラックの消費電力は850〜1000ワットとされる。ただし、この数値は同社が示した設計・運用上の値であり、今回のNUSの20台構成について、測定条件をそろえた独立機関による電力評価は公表されていない。
GPUサーバーや大規模AIシステムとの単純な消費電力比較にも注意が必要だ。CL1とGPUでは、実行する処理、出力性能、周辺設備、評価指標が異なる。現段階で重要なのは、CL1が一般的な演算処理を同じ性能で低電力化したということではなく、生体神経ネットワークを長期間観察し、刺激できる実験基盤を比較的小さな電力枠で運用することを目指している点だ。
シンガポール情報通信メディア開発庁(IMDA)は2024年5月、データセンターの持続可能な成長を支援する「グリーンデータセンター・ロードマップ」を発表した。ロードマップは、短期的に少なくとも300メガワットの追加容量を確保するとともに、ハードウェアやソフトウェア、冷却設備の効率向上やグリーンエネルギーの導入を進める方針を示している。
IMDAとシンガポール経済開発庁は2025年12月、第2回のデータセンター容量割り当て制度も開始した。少なくとも200メガワットを対象とし、革新的なグリーンエネルギーの活用によって追加容量を拡大する方針である。こうした政策環境の下、今回のプロトタイプは、従来型データセンターを直ちに置き換えるものではなく、将来の計算基盤や研究設備の選択肢を検証する長期的な取り組みと位置付けられる。
■神経科学と創薬研究を中心に用途を探る
Cortical LabsとNUSが当面重視しているのは、GPUクラスターの代替よりも、ニューロンの学習、適応、疾患時の活動変化を調べる研究基盤としての利用だ。Cortical Labsは、創薬、ロボティクス、サイバーセキュリティ、不正検知などを将来の応用候補に挙げている。これらは目標分野であり、今回のプロトタイプによって実用性能が確認された用途ではない。
NUS生命科学研究所で神経生物学プログラムを率いるRickie Patani教授は、ヒト幹細胞由来のニューロンと工学的な制御系を組み合わせることで、学習や適応を生物学的なレベルで研究できるプラットフォームになると説明している。患者や疾患の特徴を反映した細胞を利用できれば、神経疾患のモデル化や薬剤候補に対する細胞応答の観察にもつながる可能性がある。
Cortical Labsの研究チームは、てんかんに似た活動を示す培養神経ネットワークへ抗てんかん薬を加え、活動や計算課題への影響を調べる研究も進めている。こうした用途では、ニューロンの状態を電気的に連続記録しながら、薬剤による変化を同じ閉ループ環境で評価できることが利点となる。
一方、ヒト由来の神経細胞を用いる研究には、細胞提供者の同意、利用目的、データ管理、研究倫理などに関する適切な手続きが求められる。培養神経ネットワークが高度化した場合の倫理的な扱いについても、神経科学や生命倫理の分野で議論が続いている。
■クラウド経由で利用できる研究環境も提供
Cortical Labsは、CL1本体の販売に加え、装置を所有せずに生体神経ネットワークへプログラムを接続できるクラウドサービス「Cortical Cloud」を展開している。同社はこの形態を「Wetware-as-a-Service」と呼び、IEEE Spectrumは2025年時点の料金として1ユニット当たり週300ドルと報じている。1ドル159円で換算すると約4万7700円だが、実際の料金や利用条件は契約時点で確認する必要がある。
クラウド型サービスでは、利用者がCL1本体や専用設備を自ら管理せず、ブラウザーやPython向けの開発環境を通じてニューロンの刺激と活動記録を扱える。細胞培養や装置の維持はサービス提供側が担うため、生物学的コンピューティングを試す研究者や開発者の参入障壁を下げる仕組みとなる。
スイスのFinalSparkなど、培養神経組織へ遠隔アクセスできる研究基盤を提供する別の取り組みも存在する。今回のシンガポールの試みは、商用データセンター事業者、大学医学部、生物学的コンピューター開発企業が共同で20台規模の設備を設置し、データセンターの運用環境を意識した検証を始めた点に特徴がある。
DayOneは2026年6月、シリーズCの株式調達で総額45億ドルを確保したと発表した。1ドル159円換算では約7155億円となる。同社はアジアと欧州でデータセンター事業を展開しており、今回のプロトタイプを、計算能力の拡大と資源消費の抑制を両立させるための研究プロジェクトとして位置付けている。
20台のCL1は、生体ニューロンを大規模な商用計算へ直ちに投入する設備ではない。細胞とソフトウェアを結ぶ閉ループ、統合型の生命維持装置、複数台の継続運用という要素を一つの環境に集め、神経科学、創薬、計算技術の接点を検証するための試作基盤である。
■注目ポイントQ&A
●ウェットウェア・コンピューティングとニューロモーフィック・チップは何が違うのですか?
ウェットウェア・コンピューティングは、生きた神経細胞や神経組織を情報処理系の一部として利用します。ニューロモーフィック・コンピューティングは、神経系の構造や信号処理を参考に設計したシリコン回路を利用します。CL1は、生体ニューロンとシリコン製の電極、制御ソフトウェアを組み合わせたハイブリッド型の装置です。
●CL1のニューロンはどのくらい維持できますか?
Cortical Labsは、装置内の生命維持システムによって最長約6カ月維持できると説明しています。実際の期間は培養状態などに左右され、継続利用には細胞の状態監視や交換が必要です。
●CL1はGPUを置き換えるのですか?
今回のプロトタイプは、GPUサーバーの汎用的な代替として公開されたものではありません。培養ニューロンの活動、学習に伴う変化、薬剤への反応などを閉ループ環境で調べる研究基盤としての利用が中心です。
●専用の培養設備がなくても利用できますか?
Cortical Labsのクラウドサービスでは、利用者がCL1本体や培養設備を所有せず、遠隔からプログラムを実行できます。利用可能な機能、料金、研究倫理上の要件は、契約内容や研究目的によって確認する必要があります。
元記事: World’s First Brain-Cell Server Rack Opens in Singapore: Neurons Expire in Six Months