暗号学会議「CRYPTO 2026」開幕へ、AIモデル自体を解析する研究も登場
2026年8月16日 15:51
国際暗号学会(IACR)の主要研究会議「CRYPTO 2026」が、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)で8月17日に開幕する。会期は20日までで、15日と16日には関連イベントも開催される。
2024年8月に米国立標準技術研究所(NIST)が初の耐量子計算機暗号(PQC)標準を正式発行して以降、初めて開かれるCRYPTOとなる。格子暗号の安全性に関する研究に加え、ニューラルネットワークを暗号解読の対象として分析する研究や、ゼロ知識証明、完全準同型暗号など、実用システムとの関係が深まる分野の発表が予定されている。
■PQC標準化を経て迎える転換点
国際暗号学会が主催する第46回CRYPTOでは、781本の投稿から採択された189本の論文が発表される。会議録はSpringerのLecture Notes in Computer Scienceとして、過去最多となる全10巻で刊行された。
NISTは2024年8月、FIPS 203として鍵カプセル化方式のML-KEM、FIPS 204としてデジタル署名方式のML-DSA、FIPS 205としてハッシュベース署名方式のSLH-DSAを正式発行した。これらは米国の連邦政府システムで使用される標準であり、NISTは政府機関や企業に移行準備を進めるよう求めている。
ブラウザやTLS関連ソフトウェアでは、ML-KEMを既存方式と組み合わせたハイブリッド鍵共有の導入が進んでいる。一方、PQC署名を含めてすべての通信が新標準へ移行したわけではなく、現在は段階的な移行の途上にある。
CRYPTO 2026では、格子問題を解く量子アルゴリズムの改良や、標準LWEとML-KEMで採用されているモジュールLWEとの困難性の差を分析する研究が発表される。これらは直ちに既存標準の破綻を意味するものではないが、PQC方式の安全性評価や将来のパラメーター選定を検討するうえで重要な材料となる。
■暗号解読の対象となったニューラルネットワーク
今年の公式プログラムには「ニューラルネットワークの暗号解読と機械学習」と題したセッションが設けられた。機械学習を既存の暗号方式への攻撃に利用するだけでなく、学習済みモデルそのものを数学的な解析対象として扱う研究が取り上げられる。
発表予定の研究には、畳み込みニューラルネットワーク(CNN)に対する代数的な攻撃手法や、非線形活性化関数を持つ深層ニューラルネットワークの入出力を調べてモデルを抽出する手法が含まれる。モデル内部への直接アクセスを前提とせず、外部からの問い合わせによってモデルをどこまで再現できるかを暗号解読の枠組みで分析する。
また、東北大学とNTT社会情報研究所の研究者による、ハードラベル出力を利用した暗号解析的モデル抽出の計算量を検討する論文も発表される。言語モデルの出力に埋め込む電子透かしについて、堅牢な署名方式を用いて偽造耐性を持たせる研究もプログラムに含まれている。
こうした研究は、AIモデルの知的財産保護やモデルの来歴確認、外部公開APIの安全性を評価するための新たな理論的手掛かりとなる。
■実用インフラ化したゼロ知識証明と完全準同型暗号
ゼロ知識証明(ZKP)と簡潔な証明システムに関する研究も、CRYPTO 2026の主要分野の一つとなっている。ゼロ知識証明は、ある主張が真であることを、その主張以外の情報を明かさずに証明する技術である。
zkSNARKなどの証明方式は、ブロックチェーンのレイヤー2を含む実用システムに採用されている。このため、証明の健全性や回路設計、複数の証明を再帰的にまとめる手法に関する研究は、理論面だけでなく実装の安全性や効率にも関係する。
会議では、Sumcheckプロトコルを用いたzkSNARKの非展性に関する研究や、知識抽出を前提としない増分検証可能計算の研究などが発表される。これらは特定の実装の安全性を直ちに保証するものではないが、証明システムの設計と評価に必要な理論的基盤を補強する。
暗号化したデータを復号せずに計算できる完全準同型暗号(FHE)についても、複数の論文が採択された。FHEでは、計算によって暗号文に蓄積するノイズを減らす「ブートストラップ処理」の効率が、実用化に向けた重要な課題となっている。
CRYPTO 2026では、行列演算向けのFHEや、そのための効率的なブートストラップ手法が発表される。トランスフォーマーを含む機械学習モデルでは行列演算が多用されるため、こうした研究は、入力内容をサービス提供者に見せずにAI推論を実行する技術を検討するうえで重要となる。
複数の参加者が暗号化データを共同処理する分散環境を対象とした、しきい値FHEの効率化に関する研究も含まれている。
■欧州の犯罪捜査「EncroChat」事例やサイドチャネル解析
採択論文の一つでは、2020年にフランスとオランダの法執行機関が実施した暗号化通信サービス「EncroChat」への侵入作戦を、暗号プロトコルと脅威モデルの観点から分析する。
EncroChatは、改造したAndroid端末を利用する暗号化通信サービスだった。端末に導入された技術的な手段によって通信が取得され、その情報は欧州各国の犯罪捜査や訴追に利用された。
研究では、EncroChatのシステム構成や法執行機関側の手段を整理し、攻撃がどのような暗号学的敵対者モデルに当てはまるかを検討する。暗号化通信サービスの設計だけでなく、取得されたデジタル証拠の扱いを考えるための技術的資料にもなる。
実装面では、単一の電力消費波形から暗号鍵全体を復元し、異なる実装の間で攻撃モデルを転用する深層学習ベースのサイドチャネル解析が報告される。
サイドチャネル攻撃は、暗号アルゴリズムの数学的な弱点ではなく、処理時間、消費電力、電磁波など、実装から漏れる物理情報を利用する。形式的に安全性が証明された暗号方式でも、ハードウェアやソフトウェアの実装によっては情報が漏れる可能性がある。
会議では、こうした漏えいを抑えるマスキング技術の形式的安全性証明や、既存の安全性モデルと物理的な実装との隔たりを分析する研究も発表される。
■史上最大規模の採択数と会議の運営体制
CRYPTO 2026では781本の投稿から189本が採択され、会議録はSpringer LNCSの全10巻で構成された。前年のCRYPTO 2025は643本の投稿から156本が採択され、会議録は全8巻だった。
投稿数と採択数はいずれも前年から約21%増加し、会議録の巻数は25%増えた。採択論文数と巻数の増加からも、PQC、ゼロ知識証明、秘密計算、AIセキュリティなど、暗号学が扱う領域の広がりがうかがえる。
プログラム共同委員長は、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)のナディア・ヘニンガー(Nadia Heninger)氏と、オレゴン州立大学のマイク・ロスレク(Mike Rosulek)氏が務める。ゼネラルチェアはボストン大学のマヤンク・ヴァリア(Mayank Varia)氏が担当する。
メインプログラムは現地時間8月17日から20日まで開催される。現地時間16日には参加登録とレセプションが予定されている。
■注目ポイントQ&A
●CRYPTO 2026は仮想通貨(暗号資産)に関する会議ですか?
いいえ。国際暗号学会が主催する暗号学の学術研究会議です。1981年に始まり、今回が第46回となります。ブロックチェーンで利用されるゼロ知識証明なども扱いますが、暗号資産の取引や金融商品を主題とする会議ではありません。
●耐量子暗号(PQC)の検証が重要視されているのはなぜですか?
NISTがML-KEM、ML-DSA、SLH-DSAを正式標準として発行し、政府機関や企業による移行準備が始まっているためです。主要ブラウザではML-KEMを用いたハイブリッド鍵共有の採用が進んでいますが、PQCへの移行全体はまだ途中です。基盤となる数学や実装の安全性を継続的に検証することが、今後の普及に向けて重要となります。
●ニューラルネットワーク暗号解読とは何ですか?
学習済みのAIモデルを数学的な解析対象として扱い、入出力の観測などを通じて内部構造や重みをどこまで復元できるかを研究する分野です。CRYPTO 2026では、ニューラルネットワークへの代数攻撃、モデル抽出、言語モデル向け電子透かしなどの研究が発表されます。
元記事: CRYPTO 2026 Opens Today: AI Systems Are Now Both Tool and Target of Math Attacks