延世大学、IBM「Nighthawk」導入計画 量子・古典連携でリー脳症研究
2026年8月14日 17:54
韓国の延世大学は、松島(ソンド)国際キャンパスで運用するIBM Quantum System Oneの量子処理ユニット(QPU)を、2026年11月にIBMの次世代プロセッサー「Nighthawk」へ更新する計画だ。導入されれば、IBM Miamiに続く世界で2例目のNighthawk搭載拠点になると報じられている。
延世大学は、日本の理化学研究所(理研)と進めるリー脳症研究を含め、量子コンピューターとスーパーコンピューターを組み合わせた計算に新しいQPUを活用する方針だ。ただし、研究成果や計算時間の短縮効果は現段階では見通しであり、今後の計算と検証によって評価される。
■EagleからNighthawkへの移行とリー脳症研究
延世大学の量子コンピューティングチームは、松島国際キャンパスの施設にあるIBM Eagleプロセッサーを、2026年11月にNighthawkへ置き換える計画を明らかにした。8月12日付のソウル経済新聞が、延世量子イニシアチブのチョン・ジェホ所長へのインタビューとして報じた。
報道時点でNighthawkを運用している拠点はIBM Miamiのみとされ、延世大学は導入が予定どおり実現すれば世界で2番目の研究機関になる見込みだ。現在のシステムは、2024年11月に韓国初の大学設置型IBM Quantum System Oneとして稼働を開始している。
延世大学が掲げる用途の一つが、リー脳症に関する理研との共同研究である。リー脳症は、ミトコンドリアのエネルギー産生機能の異常に関係する進行性の神経疾患で、主に乳幼児期に発症する。症状や経過、原因となる遺伝子は患者によって異なり、根治療法は確立されていない。
チョン所長によると、研究対象となる計算をスーパーコンピューター「富岳」だけで処理した場合、48年間連続して計算する必要があるとの試算がある。量子コンピューターで候補を絞り込み、計算の一部を先に処理したうえで富岳につなぐことにより、計算期間を数日程度まで短縮できる可能性があるという。
これは、計算全体を量子コンピューターだけで解く構想ではない。量子プロセッサーと古典コンピューターが、それぞれ適した処理を分担する量子・古典ハイブリッド計算として進められる。
■EagleからNighthawkへ:トポロジー変更が意味すること
延世大学が現在使用しているEagleは、127量子ビットをIBMのヘビーヘックス(heavy-hex)格子に配置したプロセッサーだ。ヘビーヘックスは、各量子ビットの接続先を少なくすることで、量子ビット間の干渉やエラーを抑えることを重視した構造である。
Nighthawkは120量子ビットを搭載し、218個の調整可能なカプラーを介して正方格子状に接続する。多くの量子ビットが最大4つの隣接量子ビットと直接つながるため、ヘビーヘックス構造よりも量子情報を効率的に移動できる。
直接接続されていない量子ビット同士を相互作用させるには、量子情報を中継するSWAPゲートが必要になる。SWAPゲートが増えるほど回路が長くなり、エラーが生じる機会も増える。接続性を高めたNighthawkでは、このルーティングに必要なゲートを減らせる可能性がある。
IBMは、Nighthawkについて、従来のHeronプロセッサーと同程度のエラー率を維持しながら、30%複雑な回路を実行できるよう設計したとしている。また、チョン所長は、Eagleと同じエラーレベルで比較した場合、約40%多くの計算を実行できるとの見通しを示した。
Q-CTRLが2026年3月に公表した技術分析では、量子フーリエ変換の回路を同じコンパイル手法で比較した場合、ヘビーヘックス構造ではNighthawkの正方格子より最大50%多くの2量子ビットゲートが必要になったという。
一方、接続性の向上にはトレードオフもある。Q-CTRLの分析では、Nighthawkを搭載したibm_miamiは、Heronの高性能機と比べて2量子ビットゲートのエラー率が高く、接続の増加に伴うクロストークへの対策が重要になるとされた。
同社は、動的デカップリングと呼ばれるソフトウェア技術を使用してクロストークを抑えることで、実効的なコヒーレンス時間を改善できると報告している。つまり、Nighthawkの性能はハードウェア構造だけで決まるのではなく、回路のコンパイルやエラー抑制技術にも大きく左右される。
IBMのロードマップでは、Nighthawkが実行できる回路の規模を、2026年に最大7,500ゲート、2027年に最大1万ゲート、2028年に最大1万5,000ゲートへ拡大する目標が示されている。これらは将来の開発目標であり、変更される可能性がある。
■量子と生物学の融合:48年の計算を数日へ短縮する構想
延世量子イニシアチブは、富岳を運用する理研とリー脳症に関する共同研究を進めている。リー脳症は、ミトコンドリアによるエネルギー産生の異常に起因する重い神経疾患で、発達の退行、筋緊張の低下、運動障害、呼吸障害などを引き起こすことがある。
多くは乳幼児期に発症するが、発症年齢や進行速度には幅があり、成人で発症する例も報告されている。米国国立医学図書館のMedlinePlus Geneticsによると、発生頻度は少なくとも出生4万人に1人とされる。
延世大学が検討しているのは、病気に関係する分子系の計算に、量子プロセッサーと富岳を組み合わせる方法だ。分子内の電子状態を高精度に扱う計算は、対象が大きくなるにつれて必要な計算資源が急増するため、古典コンピューターだけでは処理が困難になる場合がある。
「リー脳症の生物学的メカニズムを特定するには、富岳だけを使用した場合、48年間ノンストップで稼働させる必要があります。量子コンピューターが重要な計算候補を絞り込み、初期段階の計算を担えば、計算期間を数日程度に短縮できます」とチョン所長は説明している。
48年および数日という期間は、今回の研究対象について延世大学側が示した試算であり、実際に達成された計算時間ではない。量子コンピューターで候補領域を絞り、その後の処理を富岳が担当するという研究計画の有効性は、今後得られる結果によって評価される。
理研とIBMは、量子プロセッサーと富岳を連携させる量子セントリック・スーパーコンピューティングの研究を進めている。延世大学の計画も、量子コンピューターを古典コンピューターの代替とするのではなく、計算の一部を担うアクセラレーターとして利用する考え方に基づく。
チョン所長によると、延世大学は2026年8月中に、現在のシステムを使ったリー脳症関連計算の初期結果を検討し、その後の計算について理研と協議する予定だ。
■Q-Bridge:企業の知識ギャップを埋める
延世大学はNighthawkへの更新と並行して、量子・古典融合プラットフォーム「Q-Bridge」を立ち上げる計画だ。企業などから産業上の課題とデータを受け取り、適切なアルゴリズムや計算資源を割り当て、研究から実証までを支援する構想である。
量子コンピューターを活用するには、対象となる問題を量子アルゴリズムに落とし込み、量子処理と古典処理を適切に分割する必要がある。Q-Bridgeは、こうした専門知識を持たない企業でも、物流、金融、材料、創薬などの課題を持ち込める仕組みを目指す。
「ほとんどの企業は量子コンピューティングに関する十分な知識を持っていません。研究への障壁を下げ、まず各産業の課題を持ち込んでもらうことが狙いです」とチョン所長は説明している。
Q-Bridgeの開発は、Nighthawkの導入と同時期となる2026年11月上旬の完了が予定されている。関連する「Q-Library」には、Q-Bridgeを通じて得られた業界別のユースケースやアルゴリズムを蓄積し、類似する課題に再利用できる形にする方針だ。
■ケンブリッジ大学との連携による研究ネットワークの拡大
延世大学は、ケンブリッジ大学との共同研究も計画している。中心となるのは、分子科学の研究成果を治療法の開発につなげることを目的とするミルナー治療学研究所である。
計画では、延世大学とケンブリッジ大学の双方に研究拠点を設ける。延世大学側では量子技術を利用した創薬研究を進め、ケンブリッジ側にも延世大学の研究拠点を置く構想が報じられている。
この連携は、延世大学を量子ハードウェアの設置場所とするだけでなく、韓国、英国、日本の研究機関をつなぐ量子・生物医学研究の拠点として発展させることを目指すものだ。
■IBMのロードマップと世界2例目の導入
IBMは2025年11月のQuantum Developer Conferenceで、Nighthawkと実験用プロセッサー「Loon」を発表した。Nighthawkは120量子ビットと218個の調整可能なカプラーを備え、最大5,000個の2量子ビットゲートを必要とする問題を扱えるよう設計された。
IBMは2026年末までに、量子コンピューターと高性能計算を組み合わせ、実用的な問題で古典計算のみの手法を上回る「量子優位性」の最初の事例を示すことを目標としている。ただし、これはIBMが掲げる開発目標であり、達成済みの事実ではない。
さらにIBMは、2029年までに大規模なフォールトトレラント量子コンピューター「Starling」を提供する計画を示している。Starlingは200論理量子ビットを使い、1億回の量子演算を実行することを目標とする。
延世大学への導入が予定どおり実現すれば、IBM Miami以外にNighthawkを設置する初の事例となる見込みだ。ただし、導入後の保守体制やIBMによる技術支援の範囲は、今回確認できた発表では明らかにされていない。
IBMは量子プロセッサーの製造を、ニューヨーク州のAlbany NanoTechにある300mmウェハー製造設備へ移行する方針も公表している。同社は、これにより研究開発の速度を2倍にし、量子チップの物理的な複雑さを10倍に高められるとしている。
IBMのロードマップでは、将来のNighthawkを最大3基の120量子ビットモジュール、さらに最大1,080量子ビットへ拡張する構想が示されている。いずれも今後の技術開発を前提とする目標である。
■延世大学がNighthawkで計算できること
Nighthawkは、分子シミュレーションや最適化など、量子コンピューターの活用が研究されている計算に向けたプロセッサーだ。正方格子状の接続により、一部のアルゴリズムではヘビーヘックス構造より少ないゲートで回路を構成できる。
一方、Nighthawkはフォールトトレラント量子コンピューターではない。物理量子ビットで発生するエラーを完全には訂正できないため、回路設計、エラー抑制、結果の検証が必要になる。
リー脳症研究についても、病気のメカニズム全体をNighthawkだけで解明するわけではない。量子プロセッサーで計算対象となる候補を絞り、その結果を富岳による古典計算へ引き渡すハイブリッド方式が想定されている。
この方法で計算期間を48年から数日へ短縮できるか、また得られる結果がリー脳症の理解や研究にどこまで役立つかは、今後の計算結果と科学的検証にかかっている。
■注目ポイントQ&A
●NighthawkはEagleと何が違うのですか?120量子ビットはEagleより少ないのではないですか?
量子プロセッサーの能力は、量子ビット数だけでは決まりません。Nighthawkは120量子ビット、Eagleは127量子ビットですが、Nighthawkは正方格子状の接続を採用し、多くの量子ビットが最大4つの隣接量子ビットと直接つながります。これにより、一部のアルゴリズムではSWAPゲートを減らし、より短い回路を構成できます。一方で、接続の増加によるクロストークを抑えるソフトウェア技術も重要になります。
●なぜリー脳症研究に量子コンピューターを使うのですか?
病気に関係する分子内の電子状態を詳しく計算する場合、対象の規模に応じて古典コンピューターの計算量が急増することがあります。延世大学は、量子コンピューターで有力な候補を絞り込み、富岳で残りの計算を行う方法を検討しています。48年から数日への短縮は延世大学側の試算であり、今後の研究で検証されます。
●IBMの量子優位性の目標とは何ですか?
IBMは、量子コンピューターと高性能計算を組み合わせ、実用的な問題で古典計算のみの手法を上回る最初の事例を2026年末までに示すことを目標としています。Nighthawkは、この目標に向けたプロセッサーとして位置づけられています。ただし、延世大学のリー脳症研究が量子優位性を実証するかどうかは、現段階では分かっていません。
●Nighthawkはいつ延世大学に導入されますか?
Nighthawk QPUの導入とQ-Bridgeの立ち上げは、2026年11月上旬に予定されています。それ以前に延世大学は、現在のシステムと理研の富岳を利用したリー脳症関連計算の初期結果を2026年8月中に検討し、その結果を踏まえて理研と次の計算について協議する予定です。
元記事: IBM Nighthawk Reaches South Korea: First Deployment Outside IBM Targets Leigh Syndrome