IBMがHRLを買収、量子ファウンドリ「Anderon」でシリコンスピン量子ビットの量産化を狙う

2026年7月24日 18:25

IBMは、ボーイングとゼネラル・モーターズ(GM)が共同所有する研究機関HRL Laboratoriesを買収する最終合意に達したと発表した。この買収により、IBMは実績のあるシリコンスピン量子ビットプログラムを獲得し、同社の量子ウエハファウンドリ「Anderon」に統合する計画だ。超伝導方式とシリコンスピン方式という異なる2つの量子ビット技術を単一の製造拠点で手掛ける試みは、量子ハードウェア業界において初の取り組みとなる。

■シリコンスピン量子ビット:IBMに欠けていたピース

IBMは、2026年6月の量子投資発表で開示された通り、世界最大規模となる90以上の量子コンピューティングシステムを配備しているが、これらはすべて「超伝導量子ビット」という単一の技術に基づいている。超伝導回路は、宇宙空間よりも低い約15ミリケルビン(約-273.135℃)まで冷却された金属ループ上で動作し、120の物理量子ビットを備える「Nighthawk r2」や、将来の「Starling」「Blue Jay」といった耐量子誤り耐性システムの基盤となっている。

一方、シリコンスピン量子ビットは根本的に異なるアプローチをとる。超伝導回路の代わりに、量子ドットと呼ばれるナノスケールの半導体構造内に単一電子を閉じ込め、電子のスピン特性に量子情報を符号化する。HRLが採用する「交換相互作用(EO)量子ビット」と呼ばれるアーキテクチャでは、1量子ビットあたり3つの量子ドットに閉じ込められた3つの電子を使用する。IBM Quantum Blogの説明によると、制御はすべて電気的に行われ、振動磁場を必要としないのが特徴だ。

この特徴は製造の観点において大きな意味を持つ。電気制御のみで機能する構造は、標準的なCMOS半導体プロセスと親和性が高い。HRLはシリコンゲルマニウム(SiGe)ヘテロ構造層から量子ドットを製造しており、これは先端半導体工場で使用されている材料と同系統である。動作温度は約1ケルビン(約-272.15℃)であり、極低温ではあるものの超伝導システムに比べて約67倍「暖かく」、冷却インフラのコストを低減できる可能性がある。

ただし、両技術における量子ビット数の格差は依然として大きい。IBMのNighthawk r2が120の物理量子ビットを動作させているのに対し、HRLの先端シリコンチップは最大18のEO量子ビットにとどまり、研究段階の域を出ていない。しかし、2023年のNature論文の共著者であるHRLのタデウス・ラッド氏は「最適な量子ビット技術を特定するのは難しいが、シリコン交換相互作用型量子ビットは最もバランスが取れている。エラーやスケール、速度、均一性の改善など課題はあるが、奇跡を必要とするものはない」と語っている。

■HRLが築いてきた実績

HRLの信頼性は、発表されてきた確かな研究成果に基づいている。2023年3月、同ラボはエンコードされたスピン量子ビットのユニバーサル制御を世界で初めて実証したとNature誌で発表した。これは、HRLのチップが限定的な操作だけでなく、プログラム可能な量子コンピュータに必要な全論理演算を実行できることを意味する。

IBMにとってさらに重要なのは近年の成果だ。HRLが2026年4月に発表した論文では、独自設計の低温CMOSコントローラ、高密度超伝導リボンケーブル、そして低ノイズEO量子ビットデバイスを統合した完全な量子処理ユニット(QPU)が記述されている。54個の交換結合量子ドットを配置したこのチップでは、ゲート操作の実証にとどまらず、距離5のリピティションコードおよび量子エラー検出コードでの検証に成功した。著者らは、EO量子ビットの性能を従来より一桁向上させたと主張している。

また、HRLは2025年7月に、汎用的なFPGA上でスピン量子ビット実験を実行可能にするオープンソースツール「spinQICK」を公開し、学術機関や企業の研究参入障壁を下げる貢献も行っている。

■マルチモダリティファウンドリが持つ意味

IBMがニューヨーク州オールバニのNanoTech Complexで展開する「Anderon」ファウンドリは、米商務省とのCHIPS法に基づく10億ドル(約1,640億円、1ドル=164円換算)の提案支援と、IBM自身の10億ドルの投資によって設立された。先端の先端半導体工場と同じ300mmウエハラインを使用し、従来の200mmラインに比べデバイス設計の試作サイクルを30倍高速化させている。

Anderonの当面の計画は超伝導量子ビットウエハの製造だが、IBMの買収発表では「HRLの案件により、スピン量子ビット製造の開発を含むAnderonとのより緊密な連携の機会が創出される」と明記された。

単一のファウンドリが、2つの異なる量子ビットアーキテクチャの量産プロセスを同時に開発することは、量子業界において前例がない。現在の量子コンピュータは単一の技術に垂直統合された企業によって製造されているが、Anderonの構想は複数のベンダーや方式に対応する「量子分野のTSMC」に近いモデルを目指している。

この動きは、IonQが2026年1月に発表した200mm CMOS量子ファウンドリであるSkyWater Technologyの18億ドル(約2,952億円、1ドル=164円換算)での買収計画とも呼応しており、量子ハードウェアの競争軸が製造能力に移っていることを示している。

■ボーイング、GM、そして量子センシングの可能性

取引完了後も、共同所有者であったボーイングとゼネラル・モーターズは量子技術分野から撤退するわけではない。両社は取引終了後もIBMと量子アプリケーションおよび先進技術開発で協業を継続する方針だ。航空宇宙シミュレーションや材料探索、自動車サプライチェーンの最適化において量子技術の短期的な価値を見出していることを示している。

また、HRLが手掛ける「量子センシング」技術もIBMが注目する分野だ。HRLは磁気、重力、慣性現象を従来型センサーを上回る精度で検出する超精密量子センサーを開発しており、ライフサイエンス、航法、防衛、科学計測への応用が見込まれている。量子センシングは量子計算よりも早期の商業化が期待できるため、短期的収益源となる可能性がある。

■2029年「Starling」への道筋とHRL買収の役割

IBMのロードマップでは、2029年までに200論理量子ビットを備える「IBM Quantum Starling」を、2030年代半ばには「IBM Quantum Blue Jay」を計画している。これらは超伝導量子ビット基盤で設計されており、今回のHRL買収が2029年までの短期的ロードマップを変更することはない。

シリコンスピン技術は、Starling以降のさらに先の世代、すなわち超伝導方式では到達が困難な密度や製造ボリュームが要求される時代のシステムを見据えたものだ。IBMは2026年6月に今後5年間で100億ドル(約1兆6,400億円、1ドル=164円換算)以上を投資する計画をSEC届出文書で開示しており、今回のHRL買収はその一環となる最初のM&A案件となる。

■注目ポイントQ&A

●シリコンスピン量子ビットとは何ですか?IBMの従来の超伝導量子ビットとどう異なりますか?

シリコンスピン量子ビットは、ナノ構造(量子ドット)内に閉じ込めた単一電子のスピン状態に量子情報を記録する方式です。HRLの交換相互作用(EO)方式では、1量子ビットあたり3つの量子ドットを使用し、電圧変化で電子間距離を制御します。約15ミリケルビンという超低温を要する超伝導方式に対し、シリコンスピンは約1ケルビン(約-272.15℃)で動作するため冷却設備の負担が抑えられるほか、一般的なCMOS半導体製造ラインを応用しやすいという利点があります。

●なぜIBMの「Anderon」ファウンドリがこの買収において重要なのですか?

Anderonは、300mmウエハラインを備えた量子専用ファウンドリです。HRLの買収により、超伝導ウエハだけでなくシリコンスピン量子ビットの製造プロセスも同一拠点内で開発・スケールアップできるようになります。2つの異なる量子アーキテクチャの産業化を単一のファウンドリで推進する取り組みは業界初となります。

●HRL Laboratoriesはシリコンスピン分野でこれまでにどのような成果を上げていますか?

HRLは2023年にNature誌でスピン量子ビットのユニバーサル制御を初めて実証したほか、2026年4月には54個の量子ドットと最大18個のEO量子ビットを組み合わせた統合プロセッサにおいて、低温CMOSコントローラやエラー検出コードの動作を実証しました。また、2025年7月には実験用のオープンソースツール「spinQICK」を公開しています。

●買収の手続きはいつ完了しますか?またボーイングとGMの関与はどうなりますか?

買収は規制当局の承認などを経て2026年第3四半期末までに完了する予定です。買収額は非公表です。買収完了後、HRLはIBMの一部となりますが、元所有者であるボーイングとゼネラル・モーターズは今後もIBMと量子応用や技術開発のパートナーシップを継続します。

元記事: IBM Acquires HRL to Bring Silicon Spin Qubits to Its Anderon Quantum Foundry

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