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「ジャパニーズ・ウイスキーの父」、竹鶴政孝を知っていますか? 今年、生誕120年
竹鶴政孝とその夫人リタの肖像。帰国当時の写真だ。その後、ふたりは北海道・余市で蒸溜所ともに生きる。現在、余市蒸溜所には、ふたりが住んだ旧・竹鶴邸が残されていて見学も可能だ[写真拡大]
1918年(大正7年)、ひとりの日本人青年がスコットランドに渡った。スコッチウイスキーの製造方法を学ぶための渡航だった。ウイスキーづくりに生涯を捧げ、今なお「日本のウイスキーの父」と呼ばれるその青年は、後に寿屋(現:サントリー)に請われて日本初のウイスキー蒸溜所である現在のサントリー山崎蒸溜所を設計・建設し、そこで初めて日本でウイスキーを製造した。その後、独立して自らの会社であるニッカウヰスキーを創業した竹鶴政孝である。
1894年(明治27年)6月20日、広島県の小さなつくり酒屋の三男として生まれた竹鶴政孝は、大阪の高等工業学校を卒業後、摂津酒造に入社。日本酒の醸造を学ぶ。一方、当時の日本では、一部の文化人を中心にした新らしモノ好きが輸入洋酒に関心を寄せ始めていた時代である。
竹鶴が摂津酒造に入社した当時、好景気に乗って事業を拡張していた同社も洋酒製造に乗り出した時期だった。しかし、当時の洋酒づくりは、本物に似せた模造品づくりだったのである。摂津酒造の社長、阿部喜兵衛は模造洋酒で利益を上げながらも忸怩たるものを感じていたようだ。「本物のウイスキーを世に送り出したい」という阿部の想いが、ひとつの決断を生む。阿部は入社2年目の竹鶴政孝に白羽の矢を立て、若い政孝に「スコットランド行きを命じた」のである。
アメリカを経由して1919年の夏、スコットランドに渡った竹鶴政孝はグラスゴー大学に入る。グラスゴー大学に残る「Matriculation Album(入学許可証)」と題された分厚いファイルに竹鶴政孝の名が残っている。彼は、「グラスゴー大学の講座・有機化学」を間違いなく履修していた。
グラスゴー大学で竹鶴政孝は、その後の生涯の伴侶となるリタ(ジェシー・ロベルタ・カウン)の妹のエラと言葉を交わすようになり、竹鶴政孝はカウン家をたびたび訪問する。そんななか、竹鶴政孝は、つつましく控えめな姉のリタに急速に惹かれていく。同時にリタも東洋からやってきた青年に恋心を寄せていったという。
1920年、新婚間もない竹鶴政孝は、キャンベルタウンを訪ねた。今はないヘーゼルバーン蒸留所で技師として働き、研修の最終仕上げを行っていたのである。この実習旅行にはリタ夫人も随行している。ヘーゼルバーン蒸留所はキャンベルタウンのメインストリートに面した海側に位置し、竹鶴政孝夫妻はキャンベルタウンに滞在し、政孝はヘーゼルバーン蒸留所で研鑽を積んだのだった。
キャンベルタウンの街の中心部に「ホワイトハート」という小さなホテルがある。300年以上も前の建物で、英国軍人カーネル氏の持ち物だった別荘を改修して1820年にオープンした古いホテルだ。ここ竹鶴政孝が夫人とともに3カ月宿泊し、ヘーゼルバーン蒸留所に技師として通っていたという。
確かに、ホワイトハート・ホテルならヘーゼルバーン蒸留所まで、徒歩で10分ほど。清潔なレストランと気楽に飲めるバーがあり、周囲には商店街もある。1920年当時のホテルの写真がロビーにあったが、現在とほとんど変わらない佇まいだった。
1920年11月、留学を終え、政孝はリタを伴って日本に帰国した。「日本で本格ウイスキーをつくる!」。そう思い描いた琥珀色の夢は波乱に見舞われながらも、請われて参画した寿屋(現・サントリー)山崎蒸溜所の建設・運営を経てやがて大きく花開いていくのである。
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※この記事はエコノミックニュースから提供を受けて配信しています。
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